Act.6


 

 

目が覚めて一番最初にぼやけた視界に見えたのは真っ白な天井で、

まだ働かない頭でそのままボーっとしていると、

香ってきた薬品の香りでここが病院だと理解した。

瞬きをした途端に目尻から耳へと伝い落ちていく冷たい感覚に、

自分が泣いていた事を理解する。

 


あたし…どうしたんだろう…?


 

長い長い夢を見ていた気がした。

誰かが笑っていて、そして女の人が泣いていた。

そんな夢を見ていた気がした。

 

誰が笑っていたのか、どうして笑っていたのか。

笑っていたと言う事だけを覚えているだけで、顔も名前も出て来ない。

泣いていた女の人が誰なのか、どうして泣いていたのか。

泣いていたと言う事だけが分かるだけで、顔も名前もやっぱり出て来ない。

 

だけど…

約束したような気がした。

大切な事を誓った気がした。

とても、悲しくて、淋しくて、切なかった…

そんな気がした…

 

そんな事を考えていると、また涙が頬を伝って耳へと零れていく。

どうして自分が泣いているのか分からないけど、

胸が締め付けられる程に、その夢は哀しかった。

 

流れていく涙を拭こうと自分の顔に手を持っていこうとすると、

自分の身体が鈍く痛む。

痛みに顔を顰めながら、

何とか手を上げるとその腕にはチューブが繋がっていて、

そのチューブの先を辿っていくと、

黄色い液体が入っている袋がぶら下がっていた。

 


点滴…?


 

自分の腕に付いているものが点滴だと分かれば、

腕に刺さっているのは針だ。

何の点滴なのか分からないながらも、

その針を動かさないように注意しながら、目元の涙を拭う。

 


本当にあたし、どうしたんだろう…

どうして、病院なんかにいるんだろう…


 

病気なんて持っていたかな?と思って、初めて気が付いた。

 


あたし…誰…?


 

 

 

 

 

 



「あっ!目が覚めたんだね?!良かった!

ちょ、ちょっと待っててね、
Dr.呼んで来るから!」



 

突然、病室の扉が開いたと思ったら、

茶髪の男性が顔を出して、そう言ってまた病室から出て行った。

 


…何、今の?

…彼は誰?外国人?


 

自分が誰か分からず、さっき入って来た彼の事も分からず、

混乱する頭で事態を把握しようと思っても余計に頭が混乱するだけで、

何の解決にもならないどころか、余計に疲れてしまうだけだった。

自分が誰なのか、一体どうしてここにいるのか、

思い出そうと試みれば試みる程、頭に鈍痛が走り、

考える事を拒否するように眠くなってしまう。

その痛みにまた顔を顰めていると、

さっき出て行った彼が、彼と同じような明るい茶髪で肌の色は白く、

深い海の色のようなエメラルドグリーンをした瞳を持つ、

顔立ちの整った綺麗な若い女性の
Dr.を伴ってあたしの元へと戻って来た。

そのDr.は、一緒に部屋へ入って来ようとしていた男性に、

「ルシアンは外にいて。」と言い彼を外で待たせ、

ナースと一緒に部屋へと入って来た。

痛みに顔を顰めているあたしに気付いたDr.は、

 



「どこか痛む?」



 

と、英語で聞いて来る。

 



「頭が、少し…。身体も動かすと痛みます。」



 

寝起きの掠れた声でそう答えるあたしも、英語で会話している。

 


あたし、英語話せるの?

考えてる言葉は、全部日本語なのに?

って事は、あたしは日本人なの?

それとも、日系の外国人なの?

 

分からない…

何も、分からない…


 

Dr.があたしの胸に聴診器を当てたり、身体中をチェックし、

「ここは痛む?」とあたしに確認する度に、

それに「いいえ。」とか「はい。」と答えながらも、

あたしは自分自身の事が分からない事に不安になり、恐怖心を抱いていく。

身体のチェックを終えたDr.は、

 



「今のところ、特に異常は見られないわね。

後で、精密検査をしてみましょう。」



 

と、あたしに微笑みかけ、ナースから受け取ったカルテを手に持って、

 



「今から私が質問する事に、ゆっくりで良いから答えてね。」



 

と質問を始めた。

 



「まず、あなたの名前と、年齢、それから住所を教えて下さい。」



 

そうDr.に聞かれて考えてみるけど、何1つとして思い出せない。

 


あたしの名前… 年齢… 住所…


 

聞かれている事の意味は分かる。

だけど、今まであたしは自分の事を何と名乗り、

そして周りから何と呼ばれていたのか、

今、自分は一体何歳なのか、

どこに住んでいて何をしていたのか、そんな基本的な事は愚か、

自分がどんな顔をしていて、どんな体系をしているのか、

そんな事すらも分からなかった。

 

一度、冷静に考え始めると、今いる場所はどこなのか、

どうして皆、英語を話しているのか、

どうしてあたしの考えている言語は日本語なのに、

英語を話す事が出来るのか、

それ以前に、どうしてあたしは病院なんかにいるのか、

分からない事が多すぎて、

Dr.の質問に答える事も出来ずに、パニックに陥ってしまった。

 

自分が考え始めた事に、不安になっているのがDr.にも伝わったんだろうか。

Dr.は、

 



「大丈夫、大丈夫だから…。ゆっくり1つずつ私の質問に答えてね。

あなた、自分の名前は分かる?」



 

と、あたしの手を優しく包み込んで安心させるように微笑み、

そう言ってくれた。

 



「ご、ごめんなさい…。分かりません…」



 

そんな事も分からない自分が恥ずかしくて、

答えられない事が何だか申し訳なくて、

泣きそうになりながら、そう呟いた。

 



「謝らなくて良いのよ、あなたは何も悪くないわ。じゃぁ、年齢は?」

 

「それも…分かりません…。

ここがどこなのか、自分が誰なのか、どうして病院にいるのか、

考えてみたけど何も分からないの…」



 


ヤダ…

何なの、これ…?

怖い…怖いよ…

あたし、どうしちゃったのよ…


 

自分自身が分からなくて、周りにいる人の事も分からなくて、

あたしは一体どうすれば良い?

何も知っているものがない、自分の置かれている状況すら分からない、

そんな世界で、あたしは一体何をしっかりと掴めば良い?

 

目が覚めるまでは、悲しくても、淋しくても、切なくても、

ちゃんと地に足が着いていた気がする。

なのに、目が覚めた途端にあたしは、縋るものも何もない空中、

しかも真っ暗な闇の中に独り放り出されたような気分だ。

 



「そう…。

この土地の事は分からなくても、ここが病院だと言う事は分かるのね?」



 

カルテにあたしが言った事を書き込みながら、Dr.はそう言った。

その質問に、あたしは「はい…」とだけ答える。

するとDr.は、

 



「分かったわ。

詳しく検査してみないと分からないけど、今はまだ混乱しているだけかも知れない。

あなたは覚えていないでしょうけど、事故に遭って運ばれて来てから、

3週間も意識不明で眠ったままだったんだから。」



 

そう言って苦笑した。

 


あたしが、事故…?

3週間も眠ったままだった?


 

突然伝えられたあまりの事実に、あたしは驚きを隠せず、Dr.の顔を凝視する。

するとDr.は、

 



「そんなに不安そうな、怖がった顔をしないで。

何も分からなくても、ここなら安心よ。

私の名前は、セシル・ピアス。あなたの担当医よ、宜しくね。

また後で、精密検査をする為に呼びに来るわ。

それまでは、何も考えないでゆっくり休んでてね。」



 

そう言って綺麗に微笑んで、病室を後にした。

そんな彼女と入れ替わるように入って来たのは、先程の男性。

よく見ると、彼も彼女と同じ明るい茶髪に白い肌をしていたけれど、

瞳だけは浅瀬の海のような明るいブルーをしていた。

 



「さっきはごめんね、驚かせてしまって…。

今、姉ちゃんに、精密検査をするまではっきりとは分からないけど、

今のところ君に特に異常がないって聞いて安心したよ。」



 

扉からゆっくりとあたしの方へ近付いて来た彼は、

そう言いながらベッドの横に置いてあるソファーに腰掛けて、

あたしに向かってホッとしたような優しそうな笑顔を向けた。

 



「…ご心配、お掛けしました。あ、あの、あなたは一体…?」



 

彼が誰なのかさっぱり分からないけど、

心配を掛けた事に間違いはなさそうなので、とりあえず謝るあたし。

失礼かと思ったけれど、

今のあたしには初対面も同然の彼に自己紹介を促した。

 



「あっ、俺ね。俺の名前は、ルシアン・ピアス。

君の主治医のセシル・ピアスの弟で、今回の事故の加害者…。

君を事故に遭わせてしまったのは、俺んちの車なんだ。

本当に申し訳ない事をしたと思ってる。ごめん。」



 

本当に申し訳なさそうな表情を浮かべて、

彼はそう言ってあたしに頭を下げる。

 



「そ、そんなっ!頭を上げて下さい!

じ、実はあたし、事故に遭った経緯も何も覚えてなくて…」



 

あたしがそう言うと、

ゆっくりと頭を上げた彼は驚愕の色を浮かべてあたしを凝視する。

 



「ま、マジで…?!何て事しちゃったんだよ、俺?!

本当に?本当に覚えてないの?

あぁ〜、どうしよう!?

と、とりあえず、お、落ち着いてっ!ね?

今はまだ混乱してるだけかも知れないし、

まだ、はっきりとした事は分からないと思うから、

今は何も考えずにゆっくり休もう。

大丈夫…。大丈夫だよ、きっと思い出せるから…ね?」



 

あたしが何も分からないと言う事実に、かなりの動揺を見せる彼。

あたし以上にパニックになっている彼の姿に、

記憶がない事に不安になっていたあたしの心が落ち着いていく。

思わず笑ってしまったあたしに気付いた彼は、

 



「あっ…」



 

と一言呟いた。

 


笑っちゃいけなかったかな?


 

そう思って慌てて笑いを治めたあたしに、彼は優しく微笑んで、

 



「君、笑ってる方がずっと良いよ。笑顔がとっても素敵だ。

心配しなくても大丈夫だよ。何も分からなくても、怖がらなくて良い。

俺が、ずっと傍にいるから…」



 

そう言って、まだ力の入らないあたしの手をギュッと優しく握ってくれた。

 

たった、それだけ…。

たった、それだけの言葉が、あたしに絶対的な安心をくれる。

 


独りじゃない


 

それだけの事が、こんなにも心強いものだなんて知らなかった。

 

一度に考えすぎた所為か、瞼が少しずつ重くなってくる。

薄れ行く意識の中で、彼が言った、

 


ずっと傍にいるから…


 

その言葉を誰か、

とても大切だと思った人に言われた事があるような気がして、

その人の事を思い出せない事が悲しくて、

会いたいのに誰なのか分からない事が苦しくて、

言いようのない感情があたしを支配し、

閉じた瞼の僅かな隙間から冷たい涙が零れ落ちた。

 

途切れつつある意識の向こうで、

少し高い温度の優しい指があたしの目元の涙を拭ってゆく。

 



「泣かないで…。大丈夫、君を独りにはしないから…」



 

そう言ったのは彼だったはずなのに、

 



泣くな…。大丈夫だ、お前は独りなんかじゃねぇよ…



 

完全に意識を手放してしまう直前に聞いた声と言葉は、

彼のものとは違っていた。

その声は、どこまでも優しくて、あたしを安心させる。

乱暴な言葉遣いの裏には、

限りなく真っ直ぐな想いが篭っていて、こんなにもあたしの胸を締め付ける。

 


夢の中では、逢えるかな…?


 

そんな事を考えながら、あたしは夢の世界へと旅立った。

 

 

 

次に目が覚めた時に行われた精密検査の結果、

身体には特に異常は見当たらなかった。

唯、3週間も眠っていたから、

体力が回復するまでは入院してリハビリするようにと言われてしまった。

そして、そんなあたしにセシルは、

 



「身体に異常は見つからなかったんだけど…」



 

と前置きし、今のあたしは病気を患っていると言った。

セシルが告げたその病名は、

 


amnesia


 

外傷が見当たらない事から判断された、

自分自身に関する事だけを忘れた、

心因性・全生活史健忘≠ニ言うものだった。

 

 

 










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