Piriririri Priririri
上手く働かない頭の意識の遠くの方で、N.Yに来てから司に持たされた携帯の音がする。
無機質な着信音は、司からの連絡ではない事をあたしに教えている。
呆然としたままの状態で、テーブルの上に置いてあった携帯に手を伸ばす。
それは、ほぼ無意識の行動に近かった。
通話ボタンを押しても何も言わずに、視線はテレビに釘付けにされたまま、携帯を耳に当てた。
目に焼きついて離れないT.Doumyouji≠フ文字。
お願い、誰か嘘だと言って…
これは悪夢なんだって、あたしはまだ眠ったままなんだって、誰でも良いからそう言って…
そんなあたしの耳に聞こえてきたのは、N.Y本社にいる司の第二秘書である芹沢さんの声。
『もしもし、牧野様?落ち着いて、聞いて下さいね。
実は先程、司様が飛行機事故に巻き込まれたと…』
もう、その先の事はあたしの耳には何も聞こえては来なかった。
テレビの画面上に繰り返される、乗客名簿。
そして、あたしはまた、愛しい人の名前を目にする。
これからって時だったじゃない…
帰って来たら、婚約発表するって約束したでしょ?
あたしが逃げたって捕まえるから無駄だって、アンタ、そう言ったでしょ?
帰って来るって言ったじゃない…
あたしに待ってろって、そう言ったじゃないのっ!
嘘よ…
こんなの、絶対嘘よっ…
通話の切れた携帯をそのまま残し、何も持たずにあたしは部屋を飛び出した。
信じたくなかった。
今朝、笑って出て行った司が、飛行機事故に巻き込まれただなんて、そんな事信じたくなかった。
たった4時間…。
あれから、4時間しか経っていない。
なのに、今朝の事が遠い過去のような、そんな気さえしてしまう。
部屋を飛び出し道明寺家専用のプライベートルームと1階を直通で繋ぐエレベーターに乗り込み、
あたしは1階へと向かう。
どこに向かっている訳でもない。
唯、安心出来る何かが欲しかった。
この事が嘘だと、証明してくれる何かが欲しかった。
真実が…唯、知りたかった…。
神様…
あなたは、どうしてこんなにも…
静かに降下するエレベーターの中で、あたしは歪みそうになる視界を必死で止めながら、
行き場のない思いを持て余していた。
まだ、決まった訳じゃない。
司は、絶対生きてる。
生きて、ちゃんとあたしの所へ帰って来るっ!
そう自分に言い聞かせながら、早鐘のように煩く鳴り響く鼓動を落ち着ける。
だけど、襲い来る不安は止まる事を知らず、次から次へと嫌な方向へと意識を向ける。
そんな事を考えたくなくて、早くっ!と願いながら、
少しずつ下がっていくエレベーターの光を見つめていた。
15F…
落ち着いて…
落ち着け、あたし…
10F…
司は、刺されたって死ななかった男でしょ?
5F…
分かってる、分かってるの、そんな事…
だけど、それでも、あの時の光景が、あの時の司の顔が、
あたしの頭をチラついて消えてくれない。
1F…
もう、あんな思いはしたくないのっ…
1Fに着き、エレベーターの扉が開いた途端に走り出した。
長い廊下を走り抜け、フロントの前を突っ切る。
エントランスを抜けてホテルの入り口で辺りを見回すけど、
すぐに乗れそうな車は見つからなかった。
道明寺家の車が準備出来るまでなんて、待っていられない。
それなら、大通りでタクシーを拾った方が早い。
そう考えたあたしは、そのまま大通りに向かって、また走った。
墜落した飛行機の損傷がどれ程のものなのか、生存者はいるのか、
そんな情報がブレイキングニュースで流れる事はなかった。
事故が起きてから、そんなに時間が経っていない所為なのかも知れない。
ほとんど何の情報もないのと同じ状態で、あたしはどうすれば良いのか分からず、
どうすれば、止め処なく襲ってくるこの漠然とした不安を拭い去る事が出来るのか、
そんな事を考える余裕すら持ち合わせてはいなかった。
唯、司の無事だけを確認したい。
その一心で、あたしの足はタクシーを拾えるだろう大通りへと向かう。
司、アンタ無事だよね?
最悪、怪我してたって構わない。
でも、生きてるよね?
ちゃんと、あたしの元に戻って来るでしょ?
約束したよね、帰って来るって…
アンタは、約束守る男でしょ?
走った所為で乱れる呼吸、乾いていく喉。
乱れる髪も、汗で落ちていくメイクも、どうでも良い。
走りながら、答えが返ってくる事のない問いかけを繰り返す。
思い出すのは、出逢った時からの司の怒った顔、拗ねた顔、不機嫌そうな顔、
嬉しそうな顔、照れた顔、子供のように眼をキラキラさせた顔、
そして、この広い世界であたしだけが見る事の出来る男の顔…。
沢山の想い出と一緒に、脳裏を色んな司の表情が浮かんでは消えていく。
もう一度、その癖のある柔らかな髪に触れたい。
もう一度、全ての事から護ってくれる力強い腕に抱き締められたい。
もう一度、その逞しい胸に自分の耳を当てて、規則正しい音を聞きたい。
もう一度、二度と離さないと決めた、その大きな手に触れたい。
あたしにしか見せないその優しい眼差しで、
あたしが安心するように微笑んで…
あたしにしか聞かせる事のないその優しい声で、
あたしに「大丈夫だ、心配するな…」って言って…
あたしにしかしないその想いを込めたキスで、
「俺はここにいる。」ってちゃんとあたしに伝えてよ…
ねぇ、司っ!
霞んでいく視界の中に見えた、プロポーズを受けた時に見た司の嬉しそうな顔。
その司に、あたしは懇願するように心の中で叫んだ。
こんな事になるのなら、もっと言ってあげれば良かった。
自分が自分でなくなってしまう位に、素直になれば良かった。
嫌になる程、傍にいて、飽きる程、好きだと伝えれば良かった。
愛してる。愛してる。愛してる…
もう二度と離れないって誓ったの。
ずっと傍にいるって約束したの。
だから、お願い、神様っ!
あたしから、司を取りあげないでっ!
そう強く願って、足を前に一歩踏み出したと同時に意識の遠くの方で聞いた、
車が急ブレーキを掛ける音。
キキィ――――――ッ!
音がした方向に無意識に眼を向けると同時に飛び込んできた、
見慣れているけど見慣れない鉄の塊。
あぁ、車だ…
そう思った時には、身体中に鈍い衝撃を感じていた。
ねぇ、司…
アンタは飛行機が墜ちる時、最後に何を考えてた?
少しでも、あたしの事を考える余裕があったかな?
あたしは、こんな時でもアンタの事考えてる。
可笑しいよね、死んじゃうかも知れないのに、こんなに余裕だなんて…
この広い世界の中で、たった1人、アンタだけ…
司だけを、あたしは愛してるよ…
閉じた瞼から零れ落ちた、頬を伝う雫の感触を感じながら、あたしは微笑んだ。
その瞬間、硬い地面へと容赦なく叩き付けられるあたしの身体。
痛みを感じる間もなく、あたしは暗い闇の中へと引きずり込まれる意識を、そのまま手放した。
もし、このまま死ぬのなら、次こそは司と幸せになれますように…と、
こんな人生の中、いるとも限らない神様に、そう祈りながら…