目が覚める前の浅い眠りの中、普段は見る事のない嫌な夢が俺を襲う。

 

真っ暗な闇の中ただ孤独で、周りに見えるのは俺を恨む奴等の顔、俺に苛立ちをぶつけられ苦痛に歪み助けを乞う顔ばかり。

辺りに充満するのは、血の匂い…。

もう随分前の事だと言うのに、どうして今更…。

 

吐きそうな程の不快感を覚えて早く眠りから覚めたいと思うのに、なかなかその世界から抜け出せず、

思い出したくないと必死で逃げてみても俺を囲む奴等の表情と血の匂いだけが、この暗闇の世界を埋め尽くし、俺を追う。

 

そんな暗闇の世界の先に一筋の光を見つけて、俺は急いで駆け寄った。

この世界から連れ出してくれるなら、それが何だって構わない。

 


早く、俺をここから連れ出してくれっ!


 

そう思いながら駆け込んだ先に見えたのは、出逢った頃の牧野の姿。

俺に背を向けていた牧野が振り返り、俺の姿をその大きな瞳に捉えると、牧野は花が開くように微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間、さっきの不快感も吹っ飛び俺の中に安心感と愛しさが湧き上がる。

ホッとして牧野に近付き、牧野の姿を確かめるように頬に手を当てようと伸ばした瞬間、

明るい光で包まれていた筈の辺りが、また暗闇へと一変した。

そんな暗闇の中で、牧野の姿を見失わないようにと目を凝らした俺の前には、

先程までの笑顔を浮かべた牧野ではなく、あの雨の日の牧野がいた。

途端に襲い来る強烈な胸の痛みと悲しみと絶望。

愛しさを知らなかった俺が、愛し方を知らなかった俺が、牧野に出逢ってその意味を知った。

 

あの時俺は、牧野を手に入れたと思った。

コイツも俺と同じ想いだと思ってた。

だがそれは、幻にしか過ぎなくて…。

 


もう、アンタとは付き合えない…

 

もし、アンタを好きなら、こんなふうに出て行かない。…さようなら


 

今でも心の奥に潜むあの時の牧野の言葉が、何度も暗闇の中で響いて俺の耳に届く。

 


止めろ…

止めろ、止めろ、止めろっ!


 

雨に打たれてずぶ濡れになった牧野が、ゆっくりと俺に背を向けてその場に俺を置き去りにする。

あの時のようになりたくなくて、遠ざかって行く牧野を追い掛けようとするけれど、俺の足は根が生えたかのように動かない。

 



待てよ、牧野っ!俺は、お前がいなきゃダメだっつっただろ?!お前は、俺を幸せにしてくれるって言ったじゃねぇか!



 

牧野の背中に向ってどれだけ大きな声で叫んでも、牧野は振り返らずにそのまま暗闇の中へと歩いて行く。

 



俺を置いて行くんじゃねぇよ、牧野っ!




Sweet time that sickness brings.  〜The First Part〜



 



「…かさ、司…」



 

消えて行く牧野の後ろ姿にそう叫んだところで、俺の名前を呼ぶ声に現実へと連れ戻された。

重い瞼をゆっくり開けると、そこには愛しい妻の顔。

 



「司?あぁ、良かった、やっと起きた…。大丈夫?随分、うなされてたけど…」



 

そう言って心配そうに俺の顔を覗き込んで来る。

俺はさっき見た夢が現実じゃなかった事に安堵し、そしてその存在を確かめるように掻き抱いて名前を呼んだ。

 



「つくし…」



 


あぁ、良かった…

お前はちゃんと、ここにいる…


 

突然、抱き締めた俺に驚いたのかつくしの身体がビクッと強張った…と思ったら、突然体を突き放されて、

 



「ちょ、ちょっと、司!アンタ、凄い熱あるじゃないの!」



 

と、大きな声で叫ばれた。

 


あぁ、それで…

道理で夢見が最悪な訳だ…


 

悪夢を見たのが高熱の所為だった事に少なからず安堵した俺は少し笑って、

 



「大した事ねぇよ、これ位。それより、今何時だ?確か今日は朝から会議があったはず…」



 

と言いながらベッドから抜け出そうとした俺を、つくしは慌ててベッドに押し返した。

 



「何言ってんのよ…アンタ、馬鹿じゃないの?こんなに熱のある日まで、会社に行く気なの?

今日位、仕事の事は西田さんにお任せして、ゆっくり休んで。あたしがお義母様に連絡しててあげるから…」



 

つくしはそう言うと、「体温計とタオル取って来るから、大人しくしててよ?」と言い残して、ベッドルームを後にした。

 

俺に熱があると分かった途端、急にバタバタと動き出したつくしに俺は呆気に取られてしまい、

つくしがベッドルームから出て行き、静寂が戻ってからも暫くそのまま動く事が出来ずにいた。

ふと我に返った瞬間、さっきまで見ていた夢に怯えていた俺が近くにつくしの存在を確かめた途端、

もういつも通りの俺に戻っている事に気付き、フッと笑う。

 



「アイツがいれば怖いものなしだな、俺は…」



 

そうポツリと呟いて、俺はまた眼を閉じた。

次に見る夢はきっと、幸せな夢だと思いながら…。

 

 

 

 

 

司がもう一度眠っている間に、あたしは西田さんへ司の欠勤を連絡し、

邸から連絡を受けたお医者様が到着されてから、司の診察をしてもらった。

思った通り、司の熱は38度7分。最近流行っている風邪らしい。高熱が出るのが特徴だとか。

普段働き過ぎな程働いている司には、丁度良い休息になるだろう。

 


きっと、昨日視察に行った病院でうつったのね…

修と陵には、暫く近寄らせないようにしなくちゃ。


 

診察をして下さったお医者様を見送りながら、あたしは1人苦笑した。

その後すぐに修と陵の見送りに行き、西田さんから司の事を聞いたお義母様から、

あたしも仕事を休んで司の看病をしていて欲しいと頼まれたので、お言葉に甘えて今日は1日ゆっくりと司の看病をする事に。

 

あたしが修と陵の見送りに行っている間に、タマ先輩が司の着替えをしてくれたらしく、邸に戻ったあたしにタマ先輩は開口一番、

 



「鬼の霍乱とはこの事だね、全く…。しっかり、看病しなよ。」



 

と言った。

 



「本当ですね。折角なので、今日は1日司の傍にいる事にします。」



 

そう言って笑ったあたしに、タマ先輩は、

 



「2人きりの時間なんて、今じゃほとんどないもんねぇ。あんまり、病人を刺激するんじゃないよ。」



 

とニヤリと笑う。

 



「ちょ、先輩!それって、どう言う意味ですか!」



 

遠ざかって行くタマ先輩の背中にそう言うと、ホホホッと言う笑い声が返って来た。

 


全く先輩ったら、いつまで経ってもあたしをからかって楽しんでるんだから…


 

赤くなって火照っている顔を落ち着かせながら、あたしは司の眠る部屋へと歩を進める。

 


本当に久し振りだ。

司と2人きりの時間なんて…


 

高熱で苦しんでいる司には申し訳ないけど、思わぬ出来事に少し嬉しくなるあたしがいた。

 

 

 

 

ベッドルームに入ると司はまだ寝ていて、司が起きた時に傍にいてあげる為にベッドの横のソファーに腰掛け、

頬杖をベッドについて司の寝顔を見つめていたあたし。

毎晩隣で眠っているとは言え、こんなにマジマジと寝顔を見つめるのは本当に久し振りだった。

 



「早く元気になってよね…」



 

整った彫刻のように綺麗な寝顔にそう呟くと、んっ…と小さく唸って瞼がゆっくりと持ち上がる。

 



「あっ、ごめん。起こしちゃった?」



 

あたしがそう言うと、ゆっくりと頭を動かしてあたしの姿を確認する司。

 



「いや…。何か、すっげぇ久々によく寝た気がする…」



 

そう言って「今何時だ?」と聞く司に、

 



「まだ10時にもなってないから、まだゆっくりしてて。それより、お腹減ってない?何か作って来ようか。」



 

と、サイドテーブルに用意してあったお水を手渡しながら問い掛けた。

 

 

 


飯か…


 

熱の所為か、全く腹は減ってない。

そう思って、

 



「いや、飯は良い。腹減ってねぇし…」



 

つくしに手渡された水を飲み干してグラスを返すと、

 



「ダメよ、ちゃんと食べなきゃお薬飲めないじゃないの!」



 

とつくしが怒る。

 


だったら聞くなっつーの…


 

そうは思いながらも、

 



「分かったよ。でもマジで食欲ねぇから、軽いもんで良いぜ。」



 

と、俺が苦笑しながら言うと、つくしは嬉しそうに笑って、

 



「分かった。じゃぁ、卵粥でも作って来るね。司はそのまま寝ててよ。出来たら、ちゃんと起こすから。」



 

そう俺に釘を刺して部屋を出て行く。

 


アイツ…俺が熱で苦しんでるっつーのに、何か嬉しそうじゃねぇか?


 

部屋を出て行くつくしの後姿を見ながら、俺はどことなく嬉しそうなつくしの表情を思い出し、

まだあまり働かない頭でそんな事を考えながら、俺はつくしが戻って来るまでの間、もう一眠りしようと目を閉じた。

 

 

 

次に眼が覚めた時は、丁度つくしが俺の飯を持って部屋に入って来たところで、

 



「起きてたの?ご飯、出来たよ。」



 

そう言いながら、小さな1人用土鍋の乗った盆をサイドテーブルに置いた。

ゆっくりと身体を起こす俺に手を貸しながら、つくしはベッドヘッドと背中の間にクッションを挟み、

俺に楽な態勢を取らせてくれる。

 



「前に買っておいた土鍋がこんな時に役立つなんてね。」



 

その態勢に落ち着いた俺に、つくしはそう言って笑う。

 



「お前、土鍋なんか買ってたのかよ?いつ使うつもりだったんだ?」



 

呆れたように言った俺につくしは、

 



「修と陵が産まれる前にさ、2人で鍋焼きうどんでもしたいなぁって思って買っておいたの。」



 

と恥ずかしそうに笑いながら、そう言う。

 

俺は鍋焼きうどん≠チつーのがどんなものなのかは知らねぇが、つくしがそんな事を考えていた事に驚いた。

 



「…何でしなかったんだよ?」

 

「だって、あたし大学卒業してすぐにN.Yに司と一緒に行ったんだよ?N.Yで鍋焼きうどんが出来るなんて、普通思わないでしょ?」



 


いや、俺に聞かれても分かんねぇし…

って、言うか…


 



N.Yに、日本食の材料なんて腐る程売ってたじゃねぇか。それで作ろうと思えば出来たんじゃねぇの?」



 

土鍋から器に卵粥を移しているつくしに、そう問いかけると、

 



「向こうでの生活があんまり忙しくてさ。途中から忘れてたのよ。今日、久々に見て思い出した位なんだから…。はい、どうぞ。」



 


ちょっと、待て…

じゃぁ、この土鍋は買ってから5年近くどこかで眠ってたって事か?


 



「そんな嫌そうな顔しなくても、ちゃんと定期的に使用人の方が手入れして下さってたんだから、大丈夫よ。

ほら、早く食べないと冷めちゃうよ?」



 

そう言って俺に器を手渡そうとするつくしを見て、俺はハタと思いつく。

 



「お前が食わしてくれるんじゃねぇのかよ?」

 

「は?」



 

まさか、俺がんな事を言うと思ってなかったのだろう。

つくしが間抜けな顔をしたまま、俺を凝視する。

 



「だってよ、修や陵が風邪ひいて寝込んでる時は、お前が食わしてやったんだろ?

じゃぁ、俺にも同じ事しろよ。俺だって病人だぜ?」



 

そう言ってニヤリと笑いかけると、つくしは溜息を吐いて、

 



「アンタは一体幾つなのよ…。こんな事で修と陵と張り合ってどうするの?」



 

呆れたように呟いた。

 



「アイツ等、俺が仕事でいなかったのを良い事に、

お前に飯食わしてもらったっつって俺に一々報告して来やがったんだぜ?

夫である俺ですらしてもらった事なんかねぇっつーのによ…。

アイツ等にしてやって、俺に出来ねぇなんて事はねぇよな、つくし?」



 

滅多に出す事なんてない甘えた声で、つくしにそう言って強請る。

 

そう、先月俺がN.Yへ1週間程出張に行っている間に、修と陵が風邪をひいて1週間程寝込んでいた。

俺が出張から戻った頃には2人共ピンピンしていたが、

出張中は熱が下がらなくてつくし1人で2人の看病をする事になって大変だったと言っていた。

風邪で寝込んでいた時に、つくしに飯を食わしてもらったと嬉しそうに話していた修と陵。

出張から帰ってすぐだった事もあり、つくしとの時間を手に入れたかった俺は、

2人には曖昧に「そうか、良かったな…」なんて言いながら、

内心は「俺ですら、んな事してもらった事ねぇってのに、お前等だけ…」と息子達に嫉妬していたのだ。

チャンスがあれば…と思ってはいたが、まさかこんなに早くそのチャンスに恵まれるとは…。

 


これは偏に、俺の日頃の行いが良いからだろ、やっぱ。


 

以前からこのチャンスを狙っていたなんて事に全く気付いていないつくしは、俺の突然の要求に顔を赤くして焦っている。

 


諦めろよ、つくし。

どうせ最後には俺の言う事を聞くしかねぇんだから…


 

内心、そんな事を思っている事など億尾にも出さずに、

赤い顔をしながらどうしてもしなきゃダメ?≠ニ眼で問い掛けてくるつくしに、

俺は何を言っているのか分からない振りを決め込みながら見ていた。