牧野から別れを切り出されてから一週間。
俺は何も考えずに済む様にと、今まで以上に休む間もない程仕事に打ち込んだ。
なのに、牧野から別れを切り出された日と同じ静かな夜の今日に限って、
急に予定していた会食がキャンセルになり、俺の意図せぬところであいつを想い出す時間が出来てしまった。
『あんたの未来の為に…あんたの幸せそうな笑顔の為に、あたしは今すぐあんたの前から消えるね』
なんて見え透いた嘘吐いて、俺にお前を嫌いにさせたんだって俺は思いたい。
俺が、お前への想いをすぐにでも断ち切る事が出来る様に、
それがお前からの最後の優しさで、俺の為にあんな嘘を吐いたんだって、そう思わせてくれねぇか…?
お前しか見えてなくて、夢中でお前に恋して、愛した俺。
お前しか愛せない俺が少し可哀想で、でもそんな俺も良いかって…
なのに、行き場をなくしたお前への想いは止まる事を知らない。
今は幸せそうに笑うお前を俺はまだ見れそうになくて、
お前を強く抱き締めて優しく涙を拭ってやれた頃の様に、きっと俺はもう強くはなれない。
なのに、俺は… 今でもすぐにお前を抱き締めたい…
お前が最後の誕生日にくれたピアスは、今でも俺の耳で光ってる。
安っぽくて洒落てもなくて…
でも俺はそれでも良かった。
自分の存在を主張しないそのピアスをいつも、ふいにガラスに映ったりする時に見るのが嬉しかった。
みっともなくなる程お前を愛した俺を、いつか俺自身が許してやれる時が来れば良いと今は思う。
何かを探すように時々自分の存在を主張する左耳のピアスが、お前を忘れさせてくれなくても…。
眼下に広がるネオンの海を見ながら物思いに耽っていた俺の耳に、オフィスのドアをノックする音が聞こえて来た。
秘書がスケジュールでも伝えに来たのかと、座っている椅子をゆっくりデスクへ向け「入れ。」と声を出そうとした俺の目に、
俺の返事を待たずにオフィスへ入って来た人物が映った。
「…何しに来たんだ?」
今はまだ、お前に真正面から向き合える程、あいつへの想いを捨てきれてねぇんだよ…
「随分な挨拶だね、司。」
入って来た人物は無言で拒絶する俺に構いもせずに、俺のデスクへと近付いて来る。
「俺は今、お前に会いたくねぇんだよ…」
相手の顔を見たくなくて、デスクに置かれた書類に視線を移す。
「俺も、特に司に会いたかった訳じゃないんだけど…。
一週間程前から、牧野が笑わなくなってさ。時間が出来ると独りで泣いてるみたいなんだよね。
司なら、その理由を知ってるんじゃないかと思って。」
「俺に分かる訳ねぇだろ、あいつが泣いてる理由なんて…。
お前が何かしたんじゃねぇのかよ。」
自分から俺を振った牧野が、人知れず泣いている理由なんて今の俺に分かる訳がない。
そんな事実を、認めたくない現実を、今の俺に改めて理解させ様とすんじゃねぇよ…。
「残念ながら俺は、牧野を泣かせない代わりに心からの笑顔にさせる事も出来ないんだよね。あいつが求めてる奴じゃないと。」
そう言って目の前の男は苦笑する。
「…俺に何が言いたい?」
「二人に何があったのか知らないけど、誤解してるよ。司も牧野も…」
「どう言う意味だ?あいつが俺に言ったんだぞ?俺の為なんて嘘吐いて、今すぐ俺の目の前から消えるって…」
何が誤解だと言うんだ?
あいつが俺にそう言った言葉のどこに誤解する余地があるっつーんだよ…
「司が牧野にそう言わせる様な行動したんじゃないの?その行動で牧野は、司はもう自分の事を愛していないって誤解したんだよ。」
「俺が牧野を愛せなくなるなんて、んな事ある訳ねぇだろ?!」
俺が牧野を愛せなくなるなんて考えられない。
あいつが俺以外の他の男を愛していると突き付けられた今だって、俺は狂おしい程あいつを愛して求めてる。
その事実が、こんなにも俺を苦しめてんだからよ…
「だったら、牧野にそう言ってあげなよ。」
「…言える訳ねぇだろ?俺がそう伝えたところで、あいつは苦しむだけだ。」
俺がどれだけあいつに愛してるって言ったって、あいつは類が好きなんだ。
今俺があいつに気持ちを伝えても、あいつが苦しむだけなんだよ…
「どうしてそう思うのさ?」
「どうしてだと?そんなもん、あいつの好きな男が、俺じゃねぇからに決まってんだろ?!ふざけた事言ってんじゃねぇよ!」
「…牧野がそう言ったの?」
「言ってねぇよ。でも、あいつの事見てたら分かんだろ?あいつはお前の事が好きなんだよ!んな事、俺に言わせんなっ!」
これ以上、俺を惨めにすんじゃねぇよ…
これじゃぁまるで、道化じゃねぇかよ…
「本当にそうなら良かったんだけどね…」
何で、そんなに悲しそうに笑って俺を見んだよ…
お前は牧野を愛してて、牧野もお前を愛してんだろ?
だったら、んな悲しそうな顔しなくても良いじゃねぇか。
「悔しいけど、牧野が好きな男は俺じゃなくて、司、お前だよ…」
「…何言ってんだ?んな訳…」
「牧野が司に別れを切り出したのは、あいつの本心じゃないよ。
お前が牧野は俺が好きだと勘違いして取った行動を、今度は牧野が司は自分を愛してないって勘違いしたんだ。」
マジかよ…
んな事、あって良いのかよ…
それは、あいつがまだ俺を愛してくれてるって事なのか?
俺はまた、あいつをこの手にする事が出来るっつー事なのか?
それが本当なら、俺は…
「誤解のままで終らせても良いの?
牧野と司の関係って、こんな事で終わっちゃう様な関係だったの?
いつまでも、こんな司らしくない事してんなら、俺、本気で牧野の事奪っちゃうよ?」
「ふざけんなっ!あいつは俺の女だ。今までもこれから先も、ずっと。」
「そ。じゃぁ、早く迎えに行ってあげなよ。今頃きっと独りで家にいて泣いてるよ。じゃぁ、俺帰るから。」
そう言ってくるりと踵を返し、俺に背を向けた状態でヒラヒラと手を振って扉に向かって歩き出す。
「類…」
未だに牧野の事を想ってるお前に、こんな事をさせちまう俺は情けねぇよな。
やっぱ、お前には敵わねぇよ。
「悪かったな…」
それから、ありがとう…。
言葉にしなくても、きっとこいつには伝わってる。
「ん。分かったんなら、良いよ。」
類はそれだけ言い残して、俺のオフィスを後にした。
俺の誤解から始まった事なら、今から俺がやらなきゃいけない事なんて決まってる。
もう一度、あいつの手を取れるなら、何だってしてやるさ。
類が帰った後すぐに秘書を呼び出し、残っていた今日の仕事を後日に回すよう指示を出した俺は、
迎えの車が来る時間さえも惜しくて、会社に常駐してある自分の車を牧野の住んでいるアパートへと走らせた。