後でお茶を持って来ると言う秘書さんを断り、社長室に備え付けられている小さな給湯室で、司とあたしの分のお茶を準備する。

そんなあたしの後ろに司が立ったと思ったら、あたしの耳元で、

 



「仕事中の俺は、見惚れる程カッコいいか?」



 

と、笑いを含んだ声で囁かれた。

 



「じょ、冗談じゃないわよ!

あんたの顔なんて、見飽きる位毎日見てるんだから、今更見惚れたりする訳ないでしょ?

馬鹿な事言ってないで、座ってて。」



 


あ、危ない…

もう少しで、コーヒーカップ落とすところだった…


 

いくら司の言ってる事が本当の事でも、それを認められないのが素直じゃないあたし。

本当、可愛くないな…。

 

司はあたしがそう言った後、やっぱり笑いながら自分のデスクへと戻って行った。

結婚して6年。

司は素直じゃないあたしの事もちゃんと分かってる。

きっと、今言った事があたしの本音じゃない事もお見通し。何か悔しい…。

 

 

お茶を入れてソファーに腰を下ろすと、司の反対側のソファーに腰を下ろした。

それを確認したところで、出来上がったばかりの書類を少しの説明を加えて司に渡す。

 



「やっぱ、お前の書類が一番分かりやすくて良いな。なぁ、この書類の作成の仕方、マニュアル化しねぇ?」



 

あたしが作った書類の紙をピンと弾きながら、司が言う。

 



「司があたしの書類を見慣れてるだけじゃないの?こんなのマニュアル化する程のもんじゃないわよ。」



 

あたしはそう言いながら、作って来たお昼ご飯をテーブルに並べる。

豪華な造りのテーブルの上に、あり合わせの材料で作ったパスタとスープとブレッドが並ぶ。

 



「何だ?昼飯作って来たのか?」



 

書類を見ながら、「ったく、お前って奴は分かってねぇよな…」なんてブツブツ言ってた司がテーブルに並んだ料理を見て言う。

 



「うん。あたしもお昼まだだったし。西田さんに電話したら司もまだ食べてないって言うからさ、作って来たの。

冷蔵庫にあった食材で作ったから大したものじゃないけど、外に行くより、ここで食べた方がゆっくり出来るんじゃないかと思って。」

 

「ここんとこ、会食ばっかで味気ねぇ昼飯ばっかだったからな。すっげぇ嬉しい。サンキュ、つくし。」



 

テーブルにフォークを並べようと伸ばしたあたしの手を引っ張り、司があたしの唇を奪う。

 



「ちょ、司!あんた、ここどこだと思ってんの?!家じゃないんだから、こんな事しないで!」



 

司からの不意打ちのキスが恥ずかしくて、顔を赤くしながら講義するあたしに、司は拗ねたような顔をして、

 



「場所なんて関係ねぇよ。良いじゃねぇかよ。休憩中位、俺の好きにさせろ。」



 

なんて事を平気で言ってくる。

 


あんたの好きにさせたら、際限ないじゃないのよ!


 

TPOを弁えなさいと言おうとして、あたしは口を噤んだ。

司にTPOなんて関係ないだろうし、きっとこの俺様が常識≠フあたしの旦那様はTPOの意味すら知らない。

TOPやらPTAやら、訳の分からない事言い出すのがオチだ。

こうやって考える事が出来るあたしも、司の事をこの6年で理解して来たって事なのかも?

でも、こんな事、理解しててもねぇ…

 

あたしがそんな事を考えてる間に、司は既に目の前の料理に手を伸ばしていた。

 



「どう?ちょっと冷めてると思うけど…」



 

これはあたしの癖。

司はあたしの料理が美味しい時は美味しいと言ってくれる。

でも不味い時は何も言わない。それでも全部食べてくれるんだけど…。

司が何も言わない時は、不味いのかな?と思って聞いてしまう。

それがいつの間にか癖になってしまった。

 



「あ?あぁ、美味いよ。悪ぃ、さっきのマニュアル化について考えてた。」



 

そう言って笑う司の瞳に嘘はない。

ちょっと安心して、あたしも自分の料理に手を伸ばした。

 



「なぁ、お前の仕事ちょっと増えるかも知んねぇけど、さっきの話マジで検討しても良いか?」



 

暫く黙々と食事をしていた司が突然あたしに話を振る。

司が何か考え事をしている時、あたしは極力声を掛けない事にしている。

邪魔したくないし、きっと聞いても分からないと思うから。

あたしの意見を聞きたい時や問題が解決した後は、

あたしが自分から聞かなくても、それが例え仕事の事であたしが分からない事でも、司は何でも話してくれる。

「最近考え事ばっかしてて、ごめんな。」って言う言葉を添えて。

そんなちょっとした優しさが、あたしの司への想いを大きくしていく。

どんな他愛のない話でも、

それがなかなか2人きりの時間を取れないあたし達の夫婦関係を成り立たせてくれているんじゃないかな?なんて考える今日この頃。

 



「それは構わないけど、書類のマニュアル化なんて、そんなに重要な事なの?司の仕事を増やすだけなんじゃない?」

 

「いや、寧ろ逆。書類が丁寧で見やすいと、俺の仕事に掛かる時間が減るんだよ。

今までの3分の1位、効率良くなんじゃねぇかな?

N.Yで仕事してた時は、あんま感じなかったけど、文化の違いか日本の書類は補足が多すぎて、俺には見にくくて仕方ねぇ…」



 

なるほど。

至って単純な思考回路の持ち主である司には、シンプルで簡潔に纏められた資料や書類の方が合ってる訳だ。

N.Yで見ていた書類は、まさにそのまま。

重要な事だけが書類に書かれていて、補足説明は秘書さんから聞いていた。

だけど、日本人特有の他人を気遣う精神≠ニ言うか配慮≠ェ、返って司は馴染めなくて手間取っているって事で…。

 

その点あたしは、司の仕事を間近で見て来たから、何を書類に纏めれば良いのか分かっている。

急遽付け加えられた補足でなければ、秘書さんに伝えさせる事もない。

司がマニュアル化したいって気持ちも分かるかも。

でも、これ、あたしが司の事を理解してるって言われてるみたいで、何か嬉しい。

こんな事で喜べるあたしも、司の事を言えない位単純なのかも知れない。

 



「司の仕事を楽にする為だったら、あたしも手伝うよ。書類の作成方法を、あたしが作れば良いの?」

 

「あぁ。んで、子供の事が落ち着いたら研修に立ち会ってもらう事になるかも知んねぇけど。」



 

いつの間にか、あたしの隣に移動して来ていた司があたしのお腹に手を添える。

 



「元々、この子の事が落ち着いたら、また仕事に復帰するつもりでいたし、それは大丈夫。気にしないで。」



 

あたしがそう言って微笑みかけると、司は笑ってあたしの頭を撫でながら、「サンキュ。助かる。」と呟いた。

 




 

食事を終えてコーヒーを飲みながら、今朝、修と陵が山本先生に気になる事を言っていたと司に話した。

すると、

 



「あの野郎…。やっぱ、そうだったのか。」



 

と、眉を顰める我が夫。

 


それって、どう言う意味よ?


 

意味が分からず、訝しげな顔をして見つめていたあたしに、司が説明してくれる。

 



「修と陵を幼稚舎に編入させる時、2人で挨拶に行ったろ?

で、学園長と話した後、山本が俺達に挨拶に来た時、あいつ、お前の事見てたんだよ。

その時の目が気に入らなかったから、修と陵に見張ってろって言っといたんだよ。」



 

修と陵に見張らせてて、正解だったなと言う司。

 



「はぁ?何?それって、山本先生があたしの事を気にしてるって事?あんた、馬鹿じゃないの?山本先生が…なんて、有り得ない。」



 

呆れて否定したあたしに、司はムッとした表情で言う。

 



「男にしか分かんねぇ事もあるんだよ。まぁ、鈍感なお前が気付く訳ねぇけどな。」

 

「なっ!あたしのどこが鈍感なのよ?!」



 

あたしは司の言葉にムッとして、あたしの顔よりも上に位置する司の顔を睨みつけながら文句を言う。

すると司は、ニヤッと笑って、

 



「そう言うところだよ。お前、その顔が俺を挑発してるって事、分かってやってんの?さっき、秘書室でも同じ事したろ?」



 


ん?秘書室?

あたし、何かしたっけ?


 

あたしが何をしたのか考えていると、はぁ〜と溜息が聞こえた。

 


何で溜息なんて、吐かれなくちゃなんないのよ?!


 



「山下とお前が話してる時、俺が間に入ったら、お前睨んだろ?お前は睨んでたつもりなんだろうが、俺にはそうは見えてねぇんだよ。」



 

そう言ってフンッと鼻で笑う。

 



「じゃぁ、何であの時、目を逸らしたのよ?」

 

「んなもん決まってんだろ?お前にあんな顔でずっと見られて、俺が平気じゃねぇからだよ。」



 


はぁ?こいつは何を言ってるの??


 

あたしがまた考えていると、今度はニヤッと笑って耳元で司は囁いた。

 



「お前のその表情、最高に腰にくるんだぜ。」



 

司の言葉を聞くと同時に、ボンッと音がしそうな勢いで熱くなるあたしの顔。

 


あんた、昼間っからなんて事考えてんのよ!

あたしが山下さんと話してた時に、そんな事考えてたの?!

信じらんないっ!この馬鹿!変態!エロ親父!


 

思いつく限りの悪態が、あたしの口から出る事はない。

その為に開いた口は、司の口で塞がれていたから。

窒息してしまいそうな程、濃厚なキスが終わる頃には、あたしの中で吐かれていた悪態はもう出て来なかった。

 

司のキスは犯罪だと思う。

あたしじゃなくても、こんなキスを司にされた日には、女なら誰でも自分の思い通りに動かす事が出来るだろう。

それ位、相手を翻弄させてしまう力がある。

流されちゃダメだと抵抗しながらも、流されてしまうあたし。

それが凄く悔しい。

 

社長室の大きな窓から入る日の光を受けて、あたしと司の口を繋ぐ糸がキラキラと輝いていた。

それがまた、あたしの羞恥心を煽ってしまって、照れて赤い顔が更に赤くなる。

そんなあたしを、涼しい顔をした司が見てニヤリと男の色香を漂わせて笑う。

 



「ここじゃ続きも出来ねぇし、夜まで我慢してろよ。帰ったら、可愛がってやる。」



 

クスクス笑いながら、あたしの頭を軽くポンポンと叩いてデスクに戻り、仕事を始める憎き夫。

あたしは、そんな司を睨みつけながらテーブルに置かれたコーヒーカップを片付け、

帰る準備をしている間も、さっきされたキスの仕返しをしてやりたくて仕方なかった。

だって、悔しいじゃない、やられっぱなしなんて…。

あたしの対抗意識がムクムクと頭をもたげて来る。

時計を見ると、1445分。

ここに来たのが13時過ぎだったから、もうすぐ司のお昼休みも終わる。

でも、それまではきっと秘書さん達がこの部屋に来る事はない。

よしっ!と意気込んで、デスクで仕事をしている司に近付いて行く。

 



「司、あたし、そろそろ帰るね。」



 

そう言って声を掛け、一度、持っていた荷物を司のデスクに置く。

 



「何だ、もう帰るのか?もう少し時間あるぜ?」



 

目を通していた書類から、司の座るチェアの横にいるあたしへと視線を移す。

 



「うん、でも司も忙しいみたいだし。修と陵のお迎えの時間まで、ちょっと休むよ。」



 

「そうか。」と呟きながら、チェアから立ち上がろうとする司を制して、ネクタイを整える。

 



「送らなくて良いよ。司はこのまま仕事してて。」



 

そう言ってにっこり微笑んで、司にキスをする。

挨拶の軽いキスじゃなくて司にされた様な深いキスを、今度はあたしから。

角度を変えて、途中で息継ぎしながら何度も繰り返す。

あたしからの濃厚なキスに、最初は戸惑っていた司が段々主導権を握りだす。

司の手があたしの腰を掴み、もう片方の手があたしのジャケットを脱がせようと動いたところを見計らって唇を離す。

目を開けた先に映るのは、行為を途中で止められた事にムッとしている司の顔。

その目は、「何で、止めんだよ?」と言っているように見える。

あたしはクスッと笑って、

 



「今からまた仕事でしょ?帰って来たら、1日頑張ったご褒美あげる。

あっ、でも今日は司の帰り、遅いんだっけ?でも、夜まで我慢してね。」



 

とさっきのキスの所為で、また曲がってしまったネクタイを直しながら告げる。

 


ぷぷっ、司の顔、「信じらんねぇ…」って顔してる。

さっきの仕返しだもん。これ位、許してくれるでしょ?


 



「…さっきの仕返しのつもりかよ?ったく、これじゃぁ、俺の方が辛いじゃねぇか。んなのありかよ?」



 

そう言って拗ねている司は、本当に子供みたいで可愛い。

さっきまで、濃厚なキスを交わしていたとは思えない。

 



「そんなに夜が待ち遠しいなら、早く仕事終わらせて帰って来てね。修と陵も喜ぶよ。」



 

あたしはそう言って笑い、荷物を手に取った。

 



「じゃぁ、司。仕事、頑張ってね。」

 

「あぁ…。ったく、マジ信じらんねぇ…鬼だな、お前は…。つくし、ぜってぇ寝てんなよ!」



 

そう言い放った司の目は妖しい光を放っていた。

そんな司に苦笑しつつ、「はいはい。」と返事を返して、社長室を後にした。

 


今日は絶対、仕事を早く終わらせて帰って来るんだろうな…


 

意気揚々と帰宅するだろう司を今から想像して、あたしはクスッと笑みを零しながらエレベーターに乗り込んだ。

 
 
 
 
 
 
Act.6 『一仕事 in 社長室』