司が抱き上げていた享君の声が徐々に小さくなり始めたと思ったら、次に聞こえて来たのはスースーと言う寝息だった。
そんな享君の様子を穏やかな瞳で見つめる司。
口元には薄っすらと笑みが浮かんでいる。
「ご迷惑を…」
と、先生が司から享君を取り上げようとしたが、司はそれを片手で制す。
「このままで結構です。この子は、まだ私から離れたくないみたいですしね。」
そう言って司が視線を動かした先には、司のスーツの胸元を手の色が変わる程強い力で握り締めた享君の小さな手があった。
司は修と陵のパパになって、本当に変わった。
パパになる前の子供嫌いだった司なら、子供が泣いて自分に飛び込んで来ようものなら、
涙や鼻水が付くのを嫌がって、不機嫌な顔をしたかも知れない。
スーツを握り締めて子供が眠ってしまおうものなら、スーツが皴になるからとすぐに先生に渡していたかも知れない。
だけど、今の司はどうだろう…。
享君が安心して眠れる場所が自分の腕の中なら…と、アルマーニの高級なスーツに涙が付こうが鼻水が付こうが、
皴になろうが享君の事を考えて自分から離そうとしない。
嫌な顔ひとつせず、寧ろその光景を穏やかに見守れるようになった司は、
男として、そして父親として、立派に日々成長している。
修と陵がお腹に宿ったと言った時、司はあたしに
俺、ちゃんと父親になれると思うか?
と聞いた事があった。
司は覚えていないかも知れないけど…。
今の司を見ていると、そんな不安があったなんて思えない。
あたしは、こんなに立派に父親をしている男の人なんて、他に知らない。
穏やかに享君の寝顔を見ながら、抱いている腕とは反対の腕で優しく背中を叩く司の姿を、
あたしは眩しいものを見るように眼を細めて見つめていた。
「この子のこれからのケアについてなんかは、こちらではどのように考えていらっしゃるんですか?」
そう言って司の顔が父親の顔から、企業人の顔に変わる。
「こちらでは、まだ具体的な対処法や心のケアに関する事は決めていなくて…。
我々もこのようなケースは初めてなものですから、何から手を付ければ良いのか困ってしまって…」
園長先生が、そう言って本当に困っているような顔をする。
施設としても、なるべく早く対策を考えなければいけない事なんだろうけど、
肝心の享君は記憶を全てなくしている上に、精神的に大打撃を受けているから事は慎重に運ばなければいけない。
個人で経営している施設と言うのは大人の都合よりも、子供達の事を第一に考えると聞いた事がある。
1番に子供達の事を考えているからこそ、下手に動く事が出来ないのかも知れない。
「そうですか。では、享君を暫く我が家で預かっても構いませんか?
週刊誌の事もありますし、享君のメンタルケアの事を考えても今こちらに置いておくのは、
この子にとってあまり良くない状況なのではないかと思うのですが。」
真面目な顔でそう園長先生に話す司。
すっとあたしに視線を移した司は、
「つくしはどう思う?」
と、あたしに意見を求める。
「実はね、あたしもそう思ってたところだったの。
類は静さんが自分を取り戻してくれたって言ってたけど、じゃぁ、享君はどうなんだろうって思ってたのよ。
あたしが、享君の為に何かして上げられる事があるとしたら、
それは母親の愛情を教えて上げる事なんじゃないかなって…。
具体的に、そんな事を考えてた訳じゃないんだけどね…」
そう言ってあたしが苦笑すると、司は「そうか。」と呟いて、微笑んだ。
「そう言う事ですので、我が家に預けて頂く事は出来ないでしょうか。
その間に対処法やメンタルケアの仕方なんかを考えて頂ければと思うのですが。
私としては、このまま享君を我が家に迎え入れても構わないと思っています。
ですが、それは享君次第だと思っているので、現時点では一時、預からせて頂くと言う事にしたいのですが。」
そう言った司の言葉に驚いたのは、園長先生や担当の先生だけではなく、あたしも同様だった。
い、今、司は何て言ったの?
引き取っても構わないですって?!
あたしだって出来る事ならそうしてあげたいと思っていた。
だけど、修と陵は別にして、子供嫌いだと言っていた司が自分の子ではない享君を受け入れるとは思っていなかった。
今日、自宅へ戻った後、あたしの意見として一度司に話してみようと思っていたところだったのに…。
あたしがびっくりしたような顔で司を見ていたからか、
「何だ?お前は嫌なのか?」
と訝しげな顔で司があたしを見る。
「そ、そんな訳ないでしょ?!あたしだって、そう出来ればって思ってたけど…」
「じゃぁ、問題ねぇな。」
と、司は優しく微笑んだ。
問題?
問題なんて、色々ある気がするけど…
でもこれって、そんなに簡単に決めても良い事なの?
修と陵の事だってあるんだよ?
あたしがそんな事を色々と考えているうちに、施設側と司の話は纏まったようで、
結局その日のうちに享君を自宅へ連れ帰る事になった。