翌日。
俺が兄貴の様子を見に部屋へ訪れると、兄貴は前日と同じ姿でつくしを抱いたまま窓際に腰を下ろし、窓から外を見ていた。
「兄貴、そろそろ、つくしを着替えさせてやったらどうだ?いつまでもそのままじゃ、つくしだって気持ち悪ぃだろ?」
俺がそう声を掛けると、兄貴はやっと俺の存在に気付いた様にゆっくりと窓の外に向けていた視線を俺に向けた。
「総二郎…。そうだな、着替えをさせるから湯と新しい着物を持って来させてくれるか?」
あれから1人、随分な時間を兄貴は泣いていたのだろうか…
やっとの事で口にした声は擦れ、弱弱しかった。
「女中に任せて、兄貴は眠った方が良いんじゃねぇの?寝てねぇんだろ、昨日…」
兄貴からつくしを預かろうと傍へ寄り手を伸ばす。
そんな俺を下から敵を見る様に睨みつけ、つくしを抱いた腕に力を込める兄貴。
「触るな…。もう、こいつに誰1人として指1本触れる事は許さねぇ…。眠らなくても俺は平気だ。
着替えは俺がさせる。悪いが支度だけ済ませて出て行ってくれ…」
そう言った兄貴は、睫毛を伏せてつくしに視線を移した。
俺は兄貴に返す言葉が見つからず、「…分かったよ。」と一言残し、その場を後にする。
つくしと居られる残り僅かな時間を、きっと兄貴は2人で過ごしたいのだろう。
だが、そんな兄貴の心情が痛い程分かりきっていても、やっぱりどこか心配で兄貴を1人にする事に抵抗があった俺は、
つくしの着替えと湯を女中に用意させ、兄貴の部屋から下げた後も1人、兄貴の部屋の前に佇んでいた。
「総兄?何してんだ?そんな所で…」
何をする訳でもなく兄貴の部屋の前でボーっと座っていた俺に、あきらが声を掛けて来た。
「司兄さんは?中?」
あきらの後ろにいた類が、眠そうに目を擦りながら言う。
「あぁ…。つくしを着替えさせてやれっつったら、支度だけ整えて出て行けってさ。」
あきらと類に向けていた視線をまた部屋の前に広がる庭へと向ける。
そんな俺の隣へ、あきらと類も静かに腰を下ろした。
「少しでも2人きりで居たいんだね、司兄さん…」
しみじみと類が言う。
「本当は、あんな姿のつくしとでも別れたくない筈だぜ、司兄は。でも、そう言う訳にもいかねぇからな…」
遠い目をして類に続くあきら。
俺達にだって、未だ信じがたい事なんだ、つくしが殺されたなんて…
兄貴はもっと信じられねぇだろうな…
それぞれが物思いに耽っていると、兄貴の部屋から小さな声が漏れて来た。
「なぁ、つくし…。お前は、俺と居て幸せだったかよ?俺達が出逢わなければ、お前は今でも生きてたんじゃねぇかって、
俺がこの家の息子じゃなければお前を幸せに出来たんじゃねぇかって、そんな事ばっかり頭に浮かんじまうんだ…」
つくしが着ていた着物を脱がせ、丁寧に身体を拭きながら俺は物言わぬつくしに問いかける。
白く滑らかで、絹の様な肌触りのつくしの身体に残る大きな傷跡を見て、悔しさに顔が歪んでしまう。
最後に逢瀬を交わした一昨日の晩までは、俺よりも少し冷たい位の体温を感じる事が出来たつくしの肌。
その温もりを自分の胸に抱く度に、今まで抱いた事もない様な温かい感情に包まれていた。
愛しくて、愛しくて、時々どうして良いのか分からなくなる程、俺が愛した女…。
もう2度と、優しさに溢れたお前の声が俺の名を呼んでくれる事はない…。
そっと傷口に触れると、もうこれ以上出ないと思う程流した筈の雫が、再び俺の頬を伝っていった。
「お前の綺麗な身体に、傷ついちまったな…。ごめんな、つくし、お前を守ってやれなくて…。
痛かっただろ?苦しかったよな?お前は、俺に助けを求めてたか?最後にお前は、何を考えてた…?」
零れ落ちていく涙をそのままに、未だ生々しい傷跡に唇を寄せた。
綺麗になった身体に女中の用意した着物を着せ、身なりを整えてやる。
眠っている様にしか見えないつくしの顔。
今にも「おはよう、司。」と、いつもの様に少し照れた顔で俺に笑いかけてくれそうな気がするのに、
お前の大きく漆黒の綺麗な瞳が再び俺を見る事はない。
「最後に俺の事を想ってくれてたか?俺はいつだって、お前を想ってるよ。今までも、これからだって、ずっとな…」
冷たくなったつくしの頬に手を当てて、親指でつくしの瞼、唇、頬と順に撫でて行く。
言葉に言い表せない程の愛しさを込めて…。
部屋の外で兄貴の言葉を聞いてしまった俺達3人。
兄貴の様に心から人を愛した事のない俺達には、正直、今の兄貴の気持ちは分からない。
妻となる筈だった自分の命よりも大切だと思った女が、自分の家族に殺された。
その憎しみや悲しみが、どれ程のものかなんて事は簡単に口に出来るものでもないのだろう…。
元々兄貴は自分の気持ちを言い表す事が出来ない人間だった。
そんな兄貴を変えてくれたのは、俺達の義姉になる筈だったつくし。
兄貴の嗚咽混じりの言葉を聞きながら、俺もあきらも類も静かに涙を流していた。
「俺達、司兄さんの為に何か出来ないかな?」
静かに、だけどしっかりした口調で類が呟いた。
「つくしが亡くなった今、つくしの代わりとまではいかねぇかも知れねぇけど、これからは俺達が司兄を支えていかなきゃな。」
さっき涙を流していた時よりは、幾分か明るい声で鼻を啜りながらあきらが言う。
幾ら自己中で我侭で横暴で凶暴な男でも、俺達の兄貴に代わりはない。
この世に2人と居ない俺達の家族だ。
何だかんだ言ったって、俺達はやっぱり兄貴が好きで、必要としているのだろう。
俺達3人のよりも、遥かに自分の気持ちに正直で真っ直ぐで、強くて純粋で素直な兄貴。
そんな俺達の兄貴が壊れてしまいそうな位の悲しみを抱いている。
大きな支えを失って、兄貴が倒れてしまいそうだと言うなら、今度は俺達が兄貴を支えていってやれば良い。
兄弟って、そう言うもんだろ?
「そうだな。暫く呆けて使い物にならねぇだろう兄貴の代わり、俺達が務めっか。」
俺はそう言って、早速行動する為に立ち上がった。
俺に続いてあきらも類もその場を後にした。
やり場のない憎しみや抱えきれない程の悲しみ、行き場を失った愛情を抱いて凶行に出た人間が、
この先どうなって行くのかと言う事を、この時の俺達はまだ知らなかった。
そして、その事実が俺達兄弟の運命を大きく変えて行く事になるなんて、予想も出来なかったんだ…―――