「あれ?つくし、いないのかな?」
まだ幼さを感じさせる少し高めの類の声が聞こえて、俺の中断してしまっていた思考回路が再び動き出した。
「また、寝てんじゃねぇの?」
笑いを含んだ総二郎の声。
「ったく、こんな日でもあいつは寝てんのかよ…」
あいつらしいけどよ…と、呆れたあきらの声。
俺は三人の声を、どこか遠くに聞きながら胸騒ぎがしている事を感じていた。
すると、今まで大人しく下を向いて俺が地面に降りるのを待っていた黒曜が、バッと音がする勢いで顔を上げ、耳をピクピクと動かしている。
俺は黙ってその黒曜の動作を見つめ、その内、何か俺達には聞こえない音を黒曜が聞いている事に気付き、目を閉じて耳を澄ます。
俺の横に居た総二郎が、黒曜の様子に気付き俺の後ろに居たあきらが俺に声を掛けようとしているのを止めているのが、
研ぎ澄まされた感覚で分かる。
心の中で総二郎に感謝しながら、俺は全神経を耳に集中させる。
じっと耳を澄まして周囲の音を聞いていたその時、刀で人を切る様な音が俺の耳に届いた。
その音が俺の耳に届くと同時に、俺の胸騒ぎが一際大きくなる。
俺の頭の中で、急げと警報がなっている。
消しても、消しても湧き上がって来る嫌な予感を必死で打ち消しながら、冷静を保つ。
俺がその音を聞いた時に黒曜も同じ音を聞いたのだろう。
今まで大人しかった筈の黒曜が、俺を振り落とさんとばかりに暴れだした。
黒曜は俺達兄弟とつくし以外の人間に懐かず、興味も示さない。
その黒曜が、俺が聞いたのと同じ音を聞いた今暴れているその事実が、俺を焦らせる。
黒曜にとってつくしは、俺の次に信頼している人間だ。
つくしに会うまでは、俺以外の人間に見向きもしなかった黒曜。
恐れられ、疎ましがられていた黒曜が、少しずつ総二郎達にも心を開き始めたのは、
黒曜に人間を信じても大丈夫だと教えたのは、他の誰でもない俺の特別な存在である女、つくしだったのだ。
初めてつくしに黒曜を会わせた日―――
「こいつが俺の愛馬で、名は黒曜。気性が激しい奴で、俺以外の奴には懐かねぇんだ。あんまり近づくと危ねぇぞ。」
黒曜は滅多な事では人に懐く事をしない雄馬で、俺を除く総二郎達兄弟でさえ、黒曜の機嫌の良い日にしか自分の事を触らせようとしない。
暴れ馬で漆黒毛並みと同様の瞳は、人や他の馬達にも威圧感を与える。
そんな黒曜は扱いにくい馬として、城の人間からは恐れられ疎ましがられていた。
俺が黒曜の横に立ち手綱を握り、反対の手で黒曜の首を撫でながら、黒曜の真正面から数m離れた場所に立っているつくしに話す。
「どこかの誰かとそっくりじゃない。特定の人以外には懐かないなんて…。飼い主に似るって言うけど、本当なのね。」
つくしはそう言いながら、悪戯な瞳を俺に向けてクスクス笑う。
「それ、誰の事だよ?あんま懐かねぇし、乗り方間違えっと危ない馬だけど、こいつすげぇんだぜ?
この国一番の高速馬だし、俺の言う事はちゃんと理解出来るし…。すっげぇ、賢くて俺の大事な相棒なんだよ。」
「あんたって、本当に黒曜が好きなのね。黒曜を見るあんたの目、凄く優しい目をしてる。
黒曜もあんたの事、ちゃんと信頼してるみたいだし…。黒曜の目も優しい目をしてるよ。
黒曜、始めまして。あたしの名前は、つくし。気性が荒いからって、あんたも飼い主みたいに皆から遠巻きにされてるの?
もし、そうなんだとしても、人間を嫌いになんてならないでね。きっと、皆、黒曜の事誤解してるだけなのよ。
あたしもあんたのご主人様も、あんたの事を唯気性の激しいだけの暴れ馬だなんて思ったりしないわ。安心して頂戴。」
黒曜の目をじっと見つめながら、諭すように言い聞かせるように、ゆっくりと話すつくし。
話し終ると同時に、黒曜に向かってつくしはにっこりと微笑んだ。
すると、自分から人間に近寄った事もない黒曜がゆっくりとつくしに向かって歩き出した。
俺は突然の黒曜の動きに驚いて、すぐに反応する事が出来ずに握っていた手綱を緩めてしまった。
はっと我に返り、黒曜がつくしを傷付けるのではないかと、俺は慌てて手綱を引くが結構な力でつくしに向かっているのか、
黒曜はびくともしない。
「おいっ、黒曜!いくらお前でも、つくしに怪我させたらただじゃ済まねぇぞ?!」
俺は黒曜に、そう大きな声で叫ぶ。
つくしも突然自分に向かって歩き出した黒曜に驚きを隠せないらしく、じっとその場から動かずに固まっている。
「聞いてんのか?!黒曜!」
俺の怒鳴り声等聞こえていないかの様に、つくしに近付いていく黒曜。
焦った俺が、つくしに逃げろと声を掛けようとした、その時、
つくしがいる位置から大きく三歩程離れたその場所で、誰にも跪いた事なんてない黒曜がつくしと俺の目の前で跪いた。
俺はその黒曜の行動に呆気に取られてしまって、声が出ずにいた。
「ねっねぇ、司…。黒曜、ここで寝る気なの?」
俺同様、呆気に取られていたつくしが俺に声を掛ける。
確かに馬が跪いた格好は、座って眠る時の体制と同じだ。
だが、今この状況で黒曜が寝るとは誰が見ても思えない。
なのに、そんな検討違いな事を言うつくしの言葉に、俺は笑ってしまった。
「違ぇよ…。ったく、何すんのかと思って焦ったぜ、黒曜…。つくし、黒曜はどうやらお前を相当気に入ったらしいぜ。背中に乗れだとよ。」
俺はそう言いながら、黒曜に近付いていく。
「えぇ?!あたしを?!本当に乗っても良いの?」
そう言ってつくしは俺の…じゃなくて、黒曜の目を覗き込んで確認している。
「黒曜じゃなくて、俺に聞けよ…。黒曜は今まで、誰かに跪いた事なんてねぇんだよ。
その黒曜がお前に跪いたんだ。お前に敬意を示してる立派な証拠だろ?こいつだって、お前が乗りやすい様に跪いたんだろうしさ。」
そうだろ?と俺が黒曜の目を覗き込むと、黒曜は俺の言葉を肯定する様に尻尾を二・三回軽く振った。
「なっ?だから、ほら。乗ってやれよ。」
俺がつくしにそう言って笑いかけると、つくしはうん!と大きく頷いて着物の裾をたくし上げて、何とも勇ましい姿で黒曜に跨った。
それを確認すると黒曜は俺が跨る前にゆっくりと立ち上がる。
「おいっ、黒曜!お前、俺には自力で乗れって言ってんのか?!ったく、なんて奴だよ…」
文句を言いながら、手綱を取って鞍についている足掛けに足を掛けて素早く跨る。
「つくしもつくしだぜ。着物を着てる時は横向きに乗るもんだ。襦袢が見えてるじゃねぇか…」
俺はつくしにそう言いながら、黒曜に跨ったままでつくしの向きを変える。
「あっ、そうなの?だって、あたし馬に乗るのなんて初めてなんだもん。しょうがないじゃない…。
でも、この態勢、凄く不安定じゃない?どこに掴まってれば良いのよ…」
自分の恥ずかしい行動を指摘されたからか、少し顔を赤くしながらつくしが言う。
俺は顔中の筋肉が緩んだ表情で、
「んなもん、俺に抱きつくに決まってんだろ?しっかり掴まってねぇと、振り落とされるぜ。」
と、つくしに向かって言った。
つくしに抱きつかれる事なんて、こんな時以外、絶対と言って良い程有り得ない事だ。
こんなシチュエーションを与えてくれた黒曜に、マジで感謝だぜ。
「だ、抱きつくって!あんた、あたしが何も知らないのを良い事に、調子良い事言ってんじゃないでしょうね?!」
純情で恥ずかしがり屋のつくしは、真っ赤な顔で俺に疑いの目を向ける。
「んな訳ねぇだろ?抱きつく位、何だってんだ…。ほら、早くしろよ。黒曜が待ちくたびれてるぜ。」
俺の言葉にうっ…と言葉を詰まらせたつくしは、渋々俺の身体に腕を回してギュッと抱き締める。
「よしっ。じゃぁ、行くぜ。しっかり掴まって、前見てろよ。景色、最高だからよ。」
つくしにしがみ付かれながら、俺は意気揚々と黒曜の腹を軽く蹴り、手綱を引いた。
それ以来、黒曜はつくしにとても懐く様になり、俺が居なくてもつくしを背中に乗せる様になった。
つくしもつくしで黒曜をとても可愛がり、身体を洗ってやったりマッサージをしたりと黒曜の手入れを自らしてくれていた。
黒曜は少しずつ総二郎達だけなのだが心を開く様になり、総二郎達は黒曜に一体何があったのかと首を傾げていた。
黒曜とつくしが会うまではどこかで待ち合わせて会い、
他愛もない話をしたりしながら友達以上恋人未満としての関係を続けていたのだが、
黒曜とつくしが会ってから暫くして、つくしが俺を家に招いてくれる様になり,
俺達の関係がその頃から友達以上恋人未満の関係から正真正銘の恋人へと変わったのだ。
俺と同じ様に、黒曜にとってもつくしは特別な存在だ。
「黒曜…お前も、聞いたのか?」
震えそうになる声を必死に堪える。
今にも走り出しそうな黒曜の手綱をしっかり握り引き止める。
黒曜は俺が握っている手綱を「離せっ!」と言わんばかりに暴れる。
「聞いたんだな…?だったら、急ぐぞっ。」
そう言って、黒曜の動きを止めていた手綱を少し緩め、腹を蹴った。
俺の後ろにいた総二郎達は、突然の事に驚いている。
俺が腹を蹴ると同時に、物凄いスピードで走り始めた黒曜。
俺の様子にただ事ではないと感じた総二郎達は、何も言わずに後ろへ続く。
黒曜が向かった先は、つくしの家から少し離れた先にある大通り。
そこで、つくしに何があったのか、俺や黒曜には分からない。
だが、このどうしようもない程騒ぐ胸が、嫌な事が待ち受けていると言っている様で…。
無事でいてくれ、つくしっ!
俺は黒曜に跨りながら、そう願わずにはいられなかった。