邸のエントランスに入って暫くした時、自分の左斜め前から視線を感じ、その方向に眼をやると、
特徴的な髪型で彫刻の様に整った綺麗な顔の若い男性が、あたしを凝視していた。
な、何…?
そう思ったのがあたしの顔に表れたんだろうか。
その男の人の顔が眉間に皴を寄せ、何かに耐えるように徐々に切なげに歪んでいく。
どうして、そんな顔をするの?
どうして、そんな眼であたしを見てるの?
どうして…
あの人のそんな顔を見て、あたしまで苦しくなるの…?
何故かは分からない。
でも、泣いてしまいそうだと、そう思った。
トクンッ トクンッ トクンッ
激しい鼓動じゃない、今までに感じた事のない位、穏やかな鼓動。
だけど、その自分の胸の音は、哀しくて、苦しくて…。
切なくて涙が出そうな程、懐かしい音だと、この時のあたしは思っていた。
懐かしいって何よ?
あたしは、こんな気持ち知らない…
第一、ここに来たのは初めてでしょ?
彼を見たのだって、初めてよ…
なのに、何で?
おかしいよ…
何なの、この気持ち…
暫く何も言わずにその男の人と見つめ合っていると、彼の後ろから3人の男の人達と、1人の女の人が現れた。
皆、彼同様、人とは思えない程綺麗な顔立ちで、そしてやっぱりあたしを驚いたような顔をして凝視している。
邸の前にいた門番の男の人もそうだった。
な、何?
何なのよ、一体…?
その場にいた人達の態度に困惑し、どうしたら良いのか分からなくなっていた時、
一番最初にあたしの前に現れた人が、ゆっくりとあたしに近付いて来た。
俺がつくしの顔を凝視しているのに気付いたつくしは、明らかに戸惑った様子を見せ、困惑したような表情を浮かべた。
分かっていた事なのに、全く初対面な態度を取られた事に対してショックを受けている自分がいる事に気付く。
俺は馬鹿か?
当たりめぇだろ、んな事…
そんな自分に呆れて自嘲的な笑いを浮かべたはずなのに、その顔はどうしても切なげに歪んでしまった。
そんな俺をつくしも同じような表情で見つめ返す。
徐々に潤んでいくその大きな瞳、そして、そんな自分に戸惑うように下がった眉。
あぁ、本物だな…
生まれ変わったつくしに会えば、俺は嬉しさのあまり力が暴走するかも知れない。
何百年と嗅いでいなかったつくしの香りにヤられて、血が欲しくなるかも知れない。
そう思っていた俺は、何て馬鹿だったんだろうか。
本物のつくしだと分かった瞬間俺が感じたのは、嬉しさよりも切なさよりも、安心だった。
今のつくしの顔を見て直感した。
つくしの魂は、俺を忘れてはいないと…。
つくしの意識の奥深くに、俺はいると…。
それだけで、今は十分だった。
俺がそんな事を考えている間に、総二郎達もエントランスへ到着したようで、
つくしの表情が切なさの混じったものから、唯、困惑しているだけの表情へと変わっていく。
いつまでも、今のつくしを見ていたいが、そう言う訳にもいかない。
1人エントランスでオロオロしているつくしをこれ以上困らせない為に、
逸る気持ちと早鐘の様に脈打つ左胸の黒薔薇を鎮めながら、ゆっくりと冷静につくしに近付いた。
「こんな時間に、ここに何か用か?」
つくしの目の前に立ち見下ろす格好でそう聞くと、つくしはビクッと身体を強張らせた。
ヤベッ…
怖がらせたか?
俺がそう思っていると、案の定つくしはビクビクしながら、
「あっ、こ、こんばんは。初めまして、牧野 つくしと言います。こちらに、天草 清之介が伺っているとお聞きしたんですが…」
と、俺の質問に答えた。
天草…か…
お前が、天草のガキの婚約者だと言うのは本当だったんだな…
湧き上がる嫉妬や悲しみを押し殺す為に、ギュッと拳を握り締めたところで後ろから桜の声が聞こえて来た。
「初めまして、牧野様。私はこちらの道明寺邸でご隠居様の私設秘書をしております、三条 桜子と申します。
天草様なら、数日前に東京へと戻られたはずですが…」
桜のその言葉に驚きを隠せない様子のつくし。
どうした?
天草から連絡受けてなかったのか?
俺のその疑問は、つくしの次の言葉で解消された。
「え?あっ、そうだったんですか。
こちらへの訪問が最後だと聞いたまま連絡が途絶えてしまっていたので、心配になってお邪魔させて頂いたんですけど、
どうやら入れ違ってしまったみたいですね。」
あはは…と笑いながら、もう一度荷物を持ち直すつくし。
「天草が東京へ戻ったなら、あたしがいつまでもお邪魔している訳にはいきませんので、こちらで失礼させて頂きます。
夜分遅くに失礼致しました。では、これで…」
と、つくしがこの場を立ち去ろうとした矢先に、総二郎とあきらが扉の前に立ち塞がり、類がつくしの荷物を取り上げた。
「え…?」
突然の総二郎達の行動に、驚きを隠せないつくし。
そんなつくしに総二郎が、
「夜に、外を女の子1人で歩かせる訳にはいかないからね。」
と、ウィンクして引き止める。それにあきらも便乗し、
「そうそう。ここで俺達と会ったのも何かの縁でしょ?朝になるまでゆっくりしていきなよ。」
と、女をその気にさせるには有効的な笑みを見せる。更に類までが、
「この家、部屋なら腐る程あるんだし、遠慮なんていらないよ。
それに、三条以外は皆東京から来てるんだ。皆週末明けには東京へ戻るから、一緒に帰ると良いよ。」
と、昔つくしが天使の笑顔≠ニ言った笑みを浮かべた。
そして、俺に向かって、
「ね、司?」
と同意を求めるように言う。
東京に行くなんて、俺は一言も言ってねぇぞ…
でも、生まれ変わりのつくしが東京にいるって事が、これで確実になったんだ。
このまま、ここで動かずにいる訳にも行かねぇ…
口実が出来たと思えば良い…か。
そう考えて俺は、
「あぁ、そうだな…」
と、答えた。
だが、それだけでつくしが素直に言う事を聞くとは思えなかった俺は、
「この時間から飛行機なんて飛んでねぇし、どっかに泊まる位ならウチに泊まれば良いんじゃね?金掛かんねぇし…」
と、付け加えたが、言った後に、しまった…と後悔する破目になってしまった。
生まれ変わる前と生まれ変わってから。
きっと、つくしは本質的には前世と変わってはいないだろうから、金が掛からないとか、タダと言う言葉には弱いだろう。
だが、今の俺がそれを言うのは明らかにおかしい。
初対面の相手が、つくしがそんな言葉に弱い事を、知っているはずなどないのだから…。
訝しがられたか?なんて思っていた俺の心配は杞憂に終わる。
「お、お金が掛からないなんて…ははっ、面白い人ね、こんなに大きな家に住んでるのに…」
そう言ってつくしは、可笑しそうに笑う。
あぁ、コイツってそんな奴だったな…
鈍感で、キョトキョトしてて、危なっかしくて、眼が離せねぇ…
俺はこの600年と言う長い時間の間に、んな事すら忘れちまってたみたいだぜ…
そう思い呆れながらも、久々に見るつくしの笑顔に、眩しいものを見るように見つめていた俺。
そんな俺に、笑いを治めたつくしが視線を向ける。
「ありがとうございます。ここに泊めてもらえるのは、とても助かります。
お言葉に甘えて、今晩だけお世話になっても良いですか?」
ニッコリと微笑んで、俺にそう聞くつくし。
ここ何百年と浮ぶ事のなかった心からの笑顔が、俺の顔にも広がっていくのが分かった。
「今晩だけなんて言わずに、俺達が東京に帰るまでいれば良い。そうすれば、帰りも金掛かんねぇだろ?」
俺がそう言ってフッと笑うと、
「ふふっ。えぇ、そうですね。本当に面白い人。じゃぁ、改めて。牧野 つくしです。お世話になります。」
と、つくしは俺達に頭を下げた。
「俺は、道明寺 司。宜しくな。」
そう言って差し出した右手。
一瞬驚いた表情を浮かべたつくしは、
「こちらこそ、宜しくお願いしますね、道明寺さん。」
と、すぐにニコリと微笑み、俺の右手に自分の左手を重ねた。
600年振りに触れたつくしの手は、やっぱり俺の手よりも1回り小さく華奢な手で、その体温は想像していたよりもずっと温かかった。
600年の時を経て、再び運命の歯車が動き始める――――