自室を出た俺は夕食の準備が出来たと伝える為に、天草に用意した部屋へと向っていた。
扉の前に立ち数回ノックを繰り返すが、中から返事は返って来ない。
面倒な事を俺にさせるな…と内心舌打ちしながら、
「天草さん…?入りますよ。」
と一言声を掛け、中へと足を進めて行った。
部屋に入り辺りを見回すと、客が割り当てられた部屋でも仕事が出来る様にと取り付けさせたデスクに、
うつ伏せの状態で天草が眠っていた。
一般人の女との交際を反対されて、家を出たって言ってたっけ…
こいつも、色々と疲れてんだな…
滅多な事では他人を気遣うような事なんてしない俺。
つくしが傍にいなくなってからは全くと言って良い程そんな事をした事がなかったのに、
どうもこの天草にだけは昔の自分の姿を重ねてしまって、他人事だと割り切る事が上手く出来なかった。
そんな自分に苦笑を漏らしながらも、机に突っ伏して眠っている天草に近付く。
肩に自分の手を掛け起こそうとした瞬間、俺の眼に天草が握る1枚の写真の中の笑顔が飛び込んで来た。
ドックン…
その笑顔が俺の眼に飛び込んで来た途端、一瞬にして止まる周りの時間。
天草の肩に伸ばしていた手さえも、動きを止めてしまった。
穴が開くと思う程、その笑顔を凝視したまま動く事が出来ない。
その写真の中から俺に眩しい程の笑顔を向ける女…
会いたくて、会いたくて、ひたすらこの時を待ち続けた俺の愛しい女に…似ている…
「つ…くし…?」
最愛の女の名を小さく呟いた俺の声は、酷く擦れていた。
左の胸が火傷しそうな程の熱を持ち始め、俺の眼が徐々に紅く染まっている事をまだ冷静な頭の隅で認識する。
本当に…本当につくしなのか…?
俺が会いたくて堪らなかったお前なのか…?
お前がまた、生きてる…?
写真に写る女がつくしなのか半信半疑の俺は、もっと顔をよく見たいと天草の握るつくしの写真に手を伸ばそうとしたその時、
「ん…ご…隠居?」
今の今まで眠っていた天草が眼を覚まし、傍らに立つ俺に気付いて声を掛けて来た。
その声でハッと我に返る俺。
それと同時に写真に伸ばしていた腕を下ろし、何もない風を装った。
何を考えてんだ、俺は…
この女は天草のフィアンセだろうが…
俺のつくしが…
つくしが、俺以外の男を選ぶ訳ねぇだろ…
冷静さを取り戻そうと必死に写真の女をつくしじゃないと自分自身に言い聞かせる。
「お、起きられたかな…?夕食の準備が整ったので、呼びに来たんじゃ。
それじゃ、私は先にダイニングへ行っておるから、準備が出来たら来て下され。」
自分が動揺している事を悟られないように、用件だけを伝えて俺は足早にその場を離れる。
「あっ、すみません!俺、寝ちまってたんですね…。すぐに行きますから…」
部屋を出て行こうとする俺の背に天草の申し訳なさそうな声が届いたが、
俺はそれに返事を返す事も出来ない程、余裕を失っていた。
俺と天草がダイニングの席に着いたところで、食事のサーブが始まる。
メインを食べ終わる頃まで他愛もない話をしていた俺と天草だったが、
その話の内容は何1つとして俺の頭に入って来る事はなかった。
食事中自分を保つ為にどんなにあの写真の女がつくしではないと自分で否定しても、俺の勘はそれを許してはくれなかった。
俺の直感があれはつくしだった、俺がつくしを間違うはずがないと、そう告げる。
にこやかに俺に話しをする天草を見ながら、俺はあの写真の女の事ばかりを考えていた。
もし、あれが本当につくしだったら?
つくしがこの世界に生きているとしたら?
つくしが天草と婚約していたら…?
嫌な考えばかりが俺の頭の中を駆け巡る。
食後のコーヒーが運ばれて来たところで、ずっと天草に確認したかった事を口にした。
「天草さんの婚約者は、とても可愛らしい方なんですね…」
俺が動揺している事を相手に悟られないように、必死で自分を押さえ込みながら冷静に切り出した。
突然の俺の言葉に天草は、
「え?!」
と、顔を赤く染めて俺を凝視する。
「な、何で知って…?!」
「ははは、申し訳ない。君を起こしに行った時に大事そうに握っていた写真が眼に入ってね…」
ドクンッ ドクンッ
心臓の音に呼応するように左胸に咲く黒い薔薇が熱を持つ。
コーヒーカップの取っ手を握る手が、汗ばんでいる。
「彼女の名前を、聞いても良いかな…?」
必死で冷静さを装っている俺の声が、少し擦れ震えている。
俺に彼女の写真を見られた事に動揺している天草は、俺の微妙な変化に気付いていない。
女の名前を聞いた俺に天草は諦めたように軽く溜息を吐いて、穏やかに微笑み俺を真っ直ぐに見つめた。
その天草の表情を見た俺は、無意識の内にギュッとカップの取っ手を握り締める。
そして、俺は確かに聞いた。
一番聞きたくて、そして今、一番聞きたくなかったその名と言葉を…。
「牧野 つくし…。彼女が、俺の婚約者です。」