俺は夢を見ているのだろうか…

 

俺は自分が今見ている光景を頭で理解出来ず、そんな事を考えていた。

自分の足元に転がる女を一瞥していた兄貴の姿は一見何も変わらない。

だが兄貴の漆黒の瞳は今や、つくしが殺された日に浮かんでいた赤い月の様に赤く、

口元には有り得ない程鋭く尖った犬歯が2本覗いていた。

兄貴は突然駆け込んで来た俺達にゆっくり視線を移すと、

男の俺が見てもゾッとする程妖艶で危険な笑みを浮かべ、口元に残る真っ赤な液体を舌でペロリと舐めた。

 


「見られちまったか…」


 

そう呟く兄貴に、悪びれた様子は一切見当たらない。

そんな兄貴の様子に、俺の背筋に冷たい汗が流れた。

 


「どう言う事だよ?」


 

そう聞きたいのに、声が喉に張り付いたまま出て来ない。

どうにかして声を絞り出そうと試みるが、兄貴の赤い瞳がそれを制する様に俺を射抜いていた。

 


「どうやら俺は、人ではなくなったらしい。」



兄貴はそう呟き、自嘲的に笑う。



「若様、ちゃんと説明して差し上げなくては、普通の人には理解出来ませんよ。」



固まったままの俺達3人の後ろから、女の声がし徐々に足音が近付いて来る。

頭ではそう分かっていて、相手の顔を見る為に振り返ろうとするのだが、

俺達は兄貴の赤い瞳から視線を逸らす事も、指1本動かす事も出来なかった。

兄貴は女の言葉に「そうだな。」と乾いた笑いと零す。

 



「桜、お前の飯は終わったのか?」


「えぇ、さっき。」



俺達の横を通り過ぎ兄貴の隣に並んだ女は、兄貴に負けず劣らず妖艶で危険な笑みを俺達に向けた。

自他共に遊び人と認める俺でも、ゾッとする程綺麗な女。

とてもこの世の者とは到底思えない。

 



「この姿でお会いするのは初めてですね、若様方。初めまして、桜子と申します。」



そう言ってにっこり笑う女の瞳は兄貴とは違い紫だったが、口元からは兄貴と同じ鋭い犬歯が覗いていた。

情けない事に俺は女の笑みを見たのを最後に、意識を手放した。

遠退いて行く意識の隅の方で、俺と同じ様にあきらと類が倒れていく様を感じ取っていた。

 




 


次の日、目が覚めると俺はいつもの様に自室の寝所にいた。

昨日見たものは夢だったのかと、覚醒しきっていない頭で考えたところで答えは出ない。

そんな事をボーっと寝所で考えていると突然の俺の部屋の襖が開き、あきらと類がドカドカと入って来た。

 



「総二郎兄さん、まだ寝てたの?」



三年寝太郎と呼ばれる類が、呆れた声で俺に言う。



「お前にだけは言われたくねぇよ…」



俺はそう言って寝所から抜け出した。

どうやら俺は昨日の格好のまま眠っていたようだ。

それにしても、どうやってココまで戻って来たのか…

さっぱり記憶がない。



「お前等がココに来たって事は、昨日のあれは夢じゃなかったって事だよな?」



着替えをしながら独り言の様に呟いた俺に、あきらが答える。



「あぁ…。俺も夢じゃないかって思ったんだけど、どうもそうじゃないらしい…」


「兎に角さ、早く司兄さんのところに行ってみようよ。その為に俺がこんなに早起きしたんだから…」



類はそう言うと、着替えている俺の事など構いもせずにそそくさと部屋を出て行った。

あきらは、そんな類の様子に苦笑を浮かべながら、俺が着替え終わったのを確認すると続いて部屋を出て行く。

そんな冷たい弟達の様子に、軽く溜息を吐きながら、俺も2人の後を追いかけた。




 




「兄貴、入るぞ。」


 

兄貴の部屋の前で一声掛け、部屋に入る。

返事が返って来る等、最初から期待していない。

つくしが亡くなってからは、いつもこの調子だ。

 

兄貴の部屋に入って俺達が最初に思った事は、きっと同じだっただろう。

暗い…

いつもなら、窓際から差し込む太陽の光で部屋中が明るい筈なのに、今日は少しも光が入っていない。

外の天気は快晴だ。

だが、部屋の窓には黒い布が張られ、日光を遮断している。

今、この部屋をほのかに照らし出しているのは、夜の明り取りである蝋燭だけ。

この部屋だけが、異様な空間の様に思えた。

 



「遅かったな。もっと早くに来るかと思ってたぜ。」



低い兄貴の声が部屋の奥から聞こえる。

その声で我に返った俺は、聞きたかった事を聞いた。



「な…んで、こんなに暗くしてんだ?」



俺のその問いに答えたのは部屋の主である兄貴ではなく、女。



「私の為ですよ。」



その声がする方へ、俺を初めあきらと類が目を向けると、

そこには昨日、自分を「桜子」と俺達に名乗った女が俺達に視線を合わせずに座っていた。

 


な…んで?

どうして、この女を部屋にまで上げる?

つくしを忘れていないと思っていたのは、俺達の勘違いだったのか?


 

兄貴の母親から反対されていた事もあって、つくしはここへは入った事がなかった。

そう亡骸になるまでは…。

特別な存在だったつくしでさえも入った事のないこの部屋に、つくし以外の女を入れた兄貴に何故か、俺は言いようのない怒りを感じた。

俺はどうやらその怒りを隠し忘れていたらしく、兄貴はクッと喉の奥で笑うと、



「勘違いするな、総二郎。俺はつくし以外の女を女として見ちゃいねぇよ。

桜は…そうだな、言うなれば同士ってやつか。今日はお前等に一緒に説明してもらう為に呼んだだけだ。」



扇子を開いたり閉じたりしながら言った。

俺は兄貴のその言葉に安心し、ホッとして軽く溜息を零す。

緊迫した空気が、兄貴の一言で少しだけ穏やかになる。

だが、類だけは「桜子」をじっと睨んでいた。

 



「悪かったな、昨日は…」



唐突に兄貴が俺達に視線を向けないまま呟いた。

何に対して言っているのかと言うよりも、兄貴が俺達に対し「悪かった」などと言った事に驚き、俺達は兄貴を凝視する。

その視線に気付いたのか、兄貴はやっぱり俺達に視線を向けないまま少し悲しそうに笑い、



「お前等、俺が物の怪にでも襲われやしないかと見張ってたんだろ?」



と呟いた。



「気付いてたのか?」



驚いた様にあきらが言うと、



「いや。物音がした途端、お前等が駆け込んで来たから、そうだったんじゃねぇかと思ってよ。」



と、軽く笑った。

 


まぁ、あの状況じゃぁバレても仕方ねぇわな…


 

そう思って俺は苦笑する。



「安心しろよ。俺が襲う事はあっても、物の怪が俺を襲う事は有り得ねぇ…」



そう言った兄貴と桜子と言う女は、部屋に入ってから初めて俺達へと視線を向けた。

その瞳は昨日と同じ様に、兄貴は赤く、桜子は紫に光っていた。

驚いている俺達を見た兄貴と桜子は、自嘲気味に笑みを浮かべ、



「今、城下を騒がせている物の怪とは、俺達の事だ。」



と一言呟いた。

 
 
 
 
 
 
 
Act.10