「栓抜きと、ペンとメモ帳…。忘れ物はない…よね?」



 

着物を着た後、栓抜きの持ち手部分につけたストラップを帯飾りのように見せかけ、栓抜きを帯の中に仕舞い込む。

メモ帳は襟の合わせ部分に入れ、ペンも同様に差す。

これで準備はOK

 



「よし、出来上がり。行きますか。」



 

着物を着る時には必須の全身を映し出す鏡の前で、もう一度自分の姿を確認したら、

貴重品なんかを入れた小さな鞄を手に取って、事務所へと向かった。

 

 

 

湯の華の咲く、この場所で… Act.1

 

 

 

あたしの名前は、牧野 つくし。

ここ、『華楽(はならく)』と言う料亭旅館の仲居をしている。

と言っても、大学の長期休みだけを利用した派遣のバイト。

あたしがこのバイトを見つけたのは、大学に入ってすぐの頃。

あたしの家には金銭的な余裕がなく、あたしは今まで旅行と言う旅行をした事がなかった。

そんなあたしの目に入って来た、リゾートバイトと言う文字。

興味を惹かれてバイトの募集要項を見ていると、住み込みでリゾート地にあるホテルや旅館での接客が出来ると書いてあった。

色んな観光地に行けて、その上、お給料まで貰えるなんて一石二鳥!と思ったあたしは、

すぐにその派遣会社に連絡して、登録した。

それから4年。

あたしは長期休みの度に、忙しくて手が足りない旅館を、こうして転々としながらバイトをしている。

今回来た『華楽』は実は2度目。

今年の夏に初めて来たこの旅館は、一見さんお断り、常連さんからの紹介なしでは入れない格式高い料亭旅館。

どうやらあたしは、そこの女将さんと副社長、それから支配人に気に入られたらしく、

次の長期休みは是非!と、派遣会社に予約をされていたようだ。

長期休みに入ってすぐ、派遣会社の担当さんから連絡をもらい、すぐにここへ荷物を纏めて飛んで来た。

昨日来たばかりだと言うのに、今日から早速仕事。

でも、一度ここにいた事があるからか、全く違和感なんて感じない。

中の事を把握していると言うのは、良い事だ。

とてもやりやすい。

 

そんな事を考えながら、あたしはエレベーターを降り、裏に荷物を置いて事務所まで続く表の廊下へと続く扉を開けた。

 

 

 

 



「おはようございます。」



 

そう事務所にいる人達に、ニッコリと笑いながら挨拶をして、既に用意されていたタイムカードを入り口で押す。

 



「おはよう、久し振りだね、つくしちゃん。」


「ほんと、久し振り!元気だった?」


「また綺麗になったんじゃない?良いわね、若いって…」


「これからまた暫く、宜しく頼むよ。」



 

タイムカードを押していたあたしに気づいた事務所の人達が、久々に出勤してきたあたしに、口々にそう笑顔で挨拶してくれる。

数ヶ月振りに会ったにも関わらず、以前と変わらない態度で接してくれる皆さん。

そんな事が嬉しくて、あたしの顔に自然と本当の笑顔が浮かぶ。

 



「お久し振りです、皆さん。これからまた暫く、宜しくお願いしますね。」



 

軽くそう挨拶しながら、仲居がその日担当する部屋などをチェックする為に用意されている、

少し奥にある部屋の接客課へと入って行った。

 



「おはようございます、本日から、またお世話になります。」



 

部屋の入り口付近から、部屋の中にいるお姉さんや支配人に声を掛けると、

部屋割りを見ていたお姉さんの視線が一気にあたしの方を向く。

 


こ、怖…


 

そのあまりの迫力に、あたしが引き攣った笑みを浮かべながら一歩後退さると、

 



「牧野ぉ〜!久し振りっ!」


「嘘っ!また、来てくれたの?!」


「キャァ〜、つくしちゃん!ありがとうね!」


「いつ見ても元気そうだね、牧野」



 

と、満面の笑みを浮かべながら、着物姿のお姉さん達が今度は一気に飛び付いてきた。

 



「よ、宜しくお願いしますね、お姉さん方…」



 

熱烈な歓迎に少し戸惑っていると、一番奥にいた支配人が、

 



「牧野ぉ〜。俺には、今日のお前が女神に見えるぜ。」



 

と、安堵の表情を浮かべていた。

 



「はい?何ですか、それ?」



 

訳が分からず、あたしに抱きついていたお姉さんを受け止めながら、キョトンとした表情を浮かべるあたし。

そんなあたしに、主任の仲居である太田姉さんが、

 



「突然、Vが入って来ちゃったの…」



 

と、苦笑していた。

 



「え…まさか…」



 

あたしが、そう言って顔を引き攣らせていると、

 



「そう、そのまさかだよん。頑張れ、牧野!」



 

と、あたしに抱き付いたまま加奈子姉さんが、語尾にハートが付きそうな勢いでそう言った。

 



「えぇ?!そんなの無理に決まってるじゃないですか!あたし、今日久々に来たばっかりですよ?!」



 

あたしの身体から、加奈子姉さんを引き剥がし、加奈子姉さんの顔を見つめながら泣きそうにそう言うと、

加奈子姉さんはあたしの頭をよしよしを撫でながら、

 



「大丈夫、大丈夫、牧野だから。夏に来た時のアンケート結果聞いたでしょ?凄いじゃん、牧野の人気。

牧野が東京に戻ってからも、牧野目当てで来たお客様、結構いたんだよ?

でも、牧野は派遣だからさ、長期休暇中ですって、この支配人誤魔化してたんだから…」



 

支配人の金本さんを親指で指しながら、あたしにニッコリと笑みを向けた。

 



「そ、そんな事言われても無理ですって!

どうして、久々の出勤で
Vなんて担当しなきゃならないんですか…。金本さん、何とかならないんですか?」



 

その日の部屋割りを決めている金本さんに、そう言って縋りつくけど、金本さんは、

 



「縋りつきたいのは、俺なの!ベテランが休みの日に、Vが入るなんて思ってなかったんだよ。

頼む、牧野!今回だけ勘弁してくれ!」



 

と言って顔の前で両手を合わせ、あたしにお願いのポーズを取る。

そんな金本さんの様子に、何を言っても無駄だと思ったあたしは、

無言で加奈子姉さんに姉さん、代わって…≠ニ、視線を向けた。…が、

 



「別に良いけど、私、2部屋持ちで片方Sで、片方指名だからね。」



 

と、ウィンクを返された。

 


絶対、無理じゃん!


 

加奈子姉さんが無理だと判断したあたしは、隣に立つ太田姉さんと松下姉さんに視線を向ける。

すると、太田姉さんには、

 



「ごめんね、つくしちゃん。私、今日は海外のお客様担当なの。」



 

と苦笑され、松下姉さんに至っては、

 



「あたし、今日は一般3部屋持ちだよ。」



 

と、ニヤリと笑われた。

そんなあたし達から離れた場所にいた、副主任の岡部姉さん。

そのお姉さんにターゲットを変え、

 



「岡部姉さん!」



 

と名前を呼んだ途端、岡部姉さんは、

 



「さぁ、私はパントリーに行って準備でもしようかな。」



 

と、飄々とした態度で、接客課を後にした。

そんな岡部姉さんに続いて、太田姉さんも松下姉さんも加奈子姉さんも「そろそろ行こうか。」なんて言いながら、部屋を出て行く。

 



「仕方ない、牧野。諦めろ。」



 

支配人の金本さんは、誰をそのVに当てるかで相当悩んでいたらしく、

やっと開放されたその悩みのお陰か、気持ちいい程の笑顔を浮かべてあたしにそう言った。

 



「はい…」



 

諦めや落胆の溜め息をあたしが吐いた途端、金本さんの「よしっ、よく言った!」と、本当に嬉しそうな声が聞こえた。

ちなみに、このVやらSやらと言うのは、お客様のランクを表したもの。

 

VVIPVSSecretS

『華楽』に来られるお客様は、一般的にはVIPと呼ばれるお客様達ばかり。

だけど、そんなVIPの中にもランクはある。

VIP中のVIPと呼ばれる人達を、ここの旅館の中ではVと言っている。

 

そして、S

それは表には公表出来ないお客様達の事。

多いのは浮気や不倫の逢引きに、ここを使われるお客様方。

そんなお客様方の事を、Sと言う。

 

部屋割りの表の部屋番号が書かれた場所の隣のVSは、あたし達仲居に注意せよ!≠フメッセージ。

Vのお客様には、普段以上に気をつかなきゃいけないし、Sのお客様には、下手な事を言ってはいけない。

よくこの旅館で使われる言葉の中に、「以前は、ありがとうございました。」との言葉があるけど、Sのお客様にそれは禁句。

Sのお客様のお相手が毎回同じなら良いけれど、毎回お相手が違う場合は使えない。

家族持ちで不倫しているお客様には、特に…。

失礼のないように…、それは接客の基本だ。

 

部屋割り表は事務所やフロントにも配られるんだけど、どうやらSのお客様に気を使うのは仲居だけではないらしい。

事務所もフロントも、そのSのお客様の身内の方から連絡が入った場合には、来ていないと対応するのだとか。

『華楽』に来られるお客様の中で、気疲れするお客様ランキングを作るとするなら、

あたしは間違いなく
Sのお客様をNo.1にするだろう。

 

そんなどうでも良い事を考えながら、あたしは部屋割り表に目を通し、

お客様へお渡しする上質の和紙にプリントされた献立表を半分に折って行く。

 


802号室、緑衫(ろくさい)と、803号室、蓬莱(ほうらい)

802号室は皆川様で、803号室は道明寺様…か。

部屋食で、食事は802に用意…と。


 

それだけの事を襟の合わせに入れていたメモ帳に記入すると、半分に折った献立を持ってあたしは8階へと向かった。



まさか、今回ここに派遣された事で、今後のあたしの人生が大きく変わることなんて、

この時のあたしに、全く予想なんて出来なかった。












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