Act.2

 

 

派遣社員の出勤時間は午後5時。

5時前には着物に着替えて、事務所でタイムカードを押してその日の自分の担当の部屋を確認し、

各階のパントリーへと上がって来なきゃいけない。

パントリーと言うのは、仲居が作業をする小さなキッチンみたいな場所で、言わば旅館の裏部屋の様な場所。

 

調理場がから上げて来た料理を、

仲居が運びやすいようにわきとりと呼ばれる大きめのお盆にセットしワゴンに乗せて、

すぐにお客様の部屋の前まで運べるように準備をしたり、

小さな炊事場みたいなものも付いているから、仲番≠ニあたし達が呼んでいるアルバイトやパートさんが、

食器洗浄機では洗えない食器やグラスを洗って片付けを手伝ってくれたりする。

お客様が着る浴衣やスリッパ、アメニティーなんかもここの奥に置いてあるから、

お客様が何か困った時にはすぐに部屋へと持って行けると言う訳だ。

 

その日の担当の部屋を確認しその階のパントリーに上がって来てから、

まず最初にやるべき事は、自分が係りになったお客様の夕食の時間をチェックする事。

 

ここの旅館のチェックインは午後2時から7時までの間で、

あたしが出勤して来る時間には既に社員のお姉さんがお出迎えをし、お客様を部屋へと案内してくれている事が多い。

お出迎え≠したお姉さん達の仕事は、ウェルカムサービスのお茶出しを済ませ、

着物のサイズや夕食の時間、夕食を一緒にお持ちする飲み物なんかを聞いて、

各階に置いてあるホワイトボードに、担当の仲居が分かるように記入しておく事。

それを、その部屋の担当の仲居が確認して、

お客様の言われた時間に、言われた飲み物を持っているように、5時に出勤した仲居は準備を始める。

聞いた浴衣のサイズ変更は、大体、既に済まされている。

チェックインされてすぐ、お風呂へ行かれるお客様もいらっしゃるからだ。

だけどそれは、既にチェックイン済みのお客様の場合。

 

時々、5時を過ぎても、チェックインされていないお客様もいる。

その時は係りである仲居が、フロントの方がお客様を部屋へ案内して来てくれたらお茶出しに行く事になっている。

だからお部屋を2部屋、3部屋と掛け持ちしている時はとても大変だ。

 

8階のパントリーに上がって来たあたしは、

早速ホワイトボードをチェックして
802号室へ何時に夕食の準備をしなければいけないのかを確認する。

 



「えっと…夕食は7時で、お飲み物はなしね。802、男性1名、803、男性1名…この皆川さんって…」



 

部屋割り表を見ていた時から、皆川≠ニ言う名前に聞き覚えのあったあたしは、

ホワイトボードから視線を外し、業務報告書≠ネどが入っている棚に視線を送る。

するとやっぱりそこには、皆川 義男≠ニ言う名前のファイルが置いてあって、

この旅館の
Vの常連客と言うのが人目で分かる、ピンクのファイルが置いてあった。

 

薄い緑のファイルが一般のお客様。

初めてのお客様から10回程しか来られた事のないお客様は、

この緑のファイルに業務報告書≠ニ言う書類をファイリングされる。

業務報告書≠ニ言うのは、来られた日付や担当の仲居の名前、

そしてその時にお客様とどんな話をしたのか、どんな料理を気に入られたのか、

好き嫌いやアレルギーは何なのか…、そう言った事を事細かく記載している仲居が書く書類の事。

夕食を出してから次の朝食を済ませ、そのお客様がチェックアウトされるまでの事を報告書として提出する。

これも仲居の大事な仕事の1つなのだ。

 

それから、黄色のファイルが常連のお客様。

10回以上のお客様はこれに相当。

そこから先、ファイルの色が変わる事はほとんどない。

 

そしてこのピンクのファイルが、Vの常連のお客様のファイル。

8階は貴賓室になっていて、特別なお客様しか泊まる事が出来ない。

旅館のパンフレットなどにも8階の事は載っていないから、

本当にごく限られたお客様のみしか利用出来ないようになっている。

初めて来たお客様が突然8階に泊まる事はほとんどないけど、

Vのお客様からの紹介を受けたお客様なら、8階の部屋に泊まる事は出来る。

そんなお客様は初めてだろうが、3度目だろうが、その日からファイルはピンクに変わる。

 

で、その問題の皆川@lのファイルを開けて、ページを捲っていると…。

やっぱり見つけた。

8月13日から4日間、係りの名前があたしになっている。

初めてこの旅館に来て暫くした頃に、担当させて頂いたお客様だ。

だけど、この皆川様は、毎回奥様と2人で来られていたはず…。

奥様がいらっしゃらない時は、会社の会議の関係なんかでここの旅館を使って下さっていて、

その時の食事は大体大広間を使われていたり、中広間を使われていたりで、

部屋食と言う事はなかったはずなのに、今回は一体誰と来られたんだろう…?

 


道明寺って、名前は違うし…

義理の息子…とか?


 

そんなどうでも良い事を考えながら、

あたしは夕食の準備をする為にワゴンの上にわきとりを3枚用意し、

そこに昼間、他のお姉さんが急いで準備してくれたんだろうお箸やグラス、

コースターなどを運びやすいようにセットしていった。

 

 

 

午後6時半。

 

この旅館の冬の食前酒はひれ酒≠ナ、

調理場では、ひれ酒専用のカップにとらふぐ≠フひれを、

炭火で軽く焦げ目がつくまで焼いたものを入れてくれるところまでが準備されている。

先付けは、河豚(ふぐ)の皮刺しに、セコ松葉がに(親がに)の身を混ぜたもの。

前菜は、小さな丸盆に可愛らしく盛り付けられた5種盛りで、

2段になった木の棚の上には柿の形をした器が載っていて、

その中にはほうれん草の酒和え=A下の段には炭火で焼いた松茸が。

そして丸盆のような器に直接並べられている、マグロと貝柱の一口大の大きさの手まり寿司が1つずつ。

それから数の子が綺麗に並んでいる。

 

調理場から2名分の食前酒、先付け、前菜を持って上がって来たあたしは、

ワゴンのわきとりの上に2名分ずつ並べてセットして、最終確認をしていた。

 



「グラスOKでしょ、お箸も大丈夫。箸置きにコースターに、お刺身のお醤油…。

準備
OKね。後はひれ酒にお酒を入れるだけ…と。」



 

忘れ物がない事を確認したあたしは、パントリーを出るギリギリの時間に、

ひれ酒の器にパントリーにある熱燗の機械で八海山≠ニ言う大吟醸を入れ、蓋をした。

全ての準備が整ったあたしは、着物の袖を汚さないように付けていたタスキを外して、

鏡で見出しなみを整え、パントリーを出た。

 

 

802号室の部屋の前に着き、インターホンを鳴らして扉を開ける。

 



「失礼致します。」



 

この広い部屋の中にまで聞こえているのかどうか分からないけど、一応、そう言って声を掛ける。

部屋に入る前の襖の前で、もう一度「失礼致します。」と声を掛け、そっと襖を開いた。

 

部屋の中にいらっしゃったのは、

上座に夏にお世話をさせて頂いた時と変わらず、優しい笑顔を浮かべた老紳士の皆川様と、

下座に特徴的な髪型の怖そうな若い男性。

 


若い方が道明寺様…ね。


 

そう思いながら部屋の襖を一旦閉め、下座で正座をし三つ指を付いて、

皆川様に負けず劣らずニッコリと笑顔を浮かべるあたし。

 



「本日は華楽≠ヨお越し下さり、誠にありがとうございます。

わたくし、今回、皆川様、そして道明寺様のお部屋の係りを勤めさせて頂きます、牧野≠ニ申します。

不束者ではございますが、どうぞ宜しくお願い致します。」



 

ゆったりとした流れる動作で、ゆっくりとお辞儀をし、顔を上げる。

ふと皆川様を見ると、皆川様はあたしの挨拶を見て、満足そうな笑顔を浮かべ軽く頷いていた。

それを合図にあたしは、

 



「皆川様、本日も華楽≠ご利用下さり、誠にありがとうございます。

こうしてまたお会い出来て、大変嬉しく思っております。

何かと不行き届きな面もあるかとは思いますが、今回もどうぞ宜しくお願い致します。」



 

と、もう一度頭を下げた。

もし皆川様が下座にいらっしゃれば、こんな挨拶はしない。

だけど、今回は皆川様が上座に座っていらっしゃると言う事は、

あたしが挨拶をする事で皆川様の立場を立てる事にもなるのだ。

そう言った事を、あたしはこの仲居の仕事をしている時に学んだ。

 



「つくしさん、今回も宜しく頼むよ。

私は是非、司君にも君を紹介したくて、今回また華楽さんに寄せてもらったんだから。」



 

はははと笑いながら、よく意味の分からない事を仰る皆川様。

 



「左様で御座いますか。それは光栄でございます。」



 

笑顔のまま、さらりと皆川様の言葉を流し、道明寺様へと身体を向ける。

 



「道明寺様、もし何か御用などがおありでしたら、何なりとお申し付け下さいませ。」



 

そう言って下げた頭を上げ道明寺様の顔を見ると、爽やかな笑顔で、

 



「えぇ、そうさせて頂きます。こちらこそ、宜しく、牧野さん。」



 

と返してくれた。

 


何だ…

怖そうな人かと思ったけど、そうでもないみたい。

結構、良い人じゃない。

カッコいいしさ…


 

モテるだろうなぁ、この人…なんて思いながら、

 



「早速ですが、ご夕食の準備を整えさせて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」



 

と、皆川様と道明寺様の顔を交互に見ると、

皆川様が「構わないよ。」と答えてくれたので、あたしは早々に仕事へと戻るべく、

 



「では、早速ご準備を整えさせて頂きますので、暫くお待ち下さい。」



 

と挨拶し、部屋を後にした。

 

 

 

 



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