『道明寺、あたし決めたよ。人は誰でも翼を持ってるって言うんなら、あたしも自分の中に隠れた翼広げてみる。
あたしの翼はまだ小さくて、そんなんじゃ自由に飛べないと思う。
でも、諦めたりしない。絶対、風を掴んで見せるよ、アンタと一緒に。』
半ば無理矢理連れて行かれた滋の島からの帰り、クルーザーのデッキで風に当たっていた俺に、
さっきまであきら達とどうでも良い話をしていたと思っていた牧野が、突然そう言った。
『だからさ、アンタも自分の持ってるその翼、今より立派にしなよ。
で、一緒に飛ぼうよ。雲を突き抜けて、悲しみのない自由な空を…さ。』
この時の俺には、牧野の言っている事をきっと半分も理解出来ていなかった。
だけど、あたし達なら大丈夫≠ニ一緒に自由を掴もう≠ニ、牧野が笑ったから、俺も
『あぁ、そうだな。』
と、隣に立った牧野の肩を少し強く抱いたんだ。
なのに、俺は…
クルーザーから降りた所で報道陣に囲まれ、牧野の手を掴もうと手を伸ばした時に暴漢に刺され、そのまま牧野だけを忘れたんだ――――
それから10年後、俺は失っていた記憶を取り戻した。
会社のエレベーターが故障したとかで突然停まり、その時の状況がいつかの光景とリンクしたのがキッカケ。
その後、激しい頭痛に襲われ、俺は意識を手放した。
気付いた時には病院のベッドの上で、牧野の事を忘れてから10年の月日が経っていた。
記憶を取り戻して、最初に考えたのは牧野の事。
だが、その時の俺は既に結婚していて、子供もいた。
牧野の事を忘れていたにも関わらず、俺は今の妻に恋をし、そして結婚していたのだ。
病室のベッドの上で、ボーっと牧野の事を考えていた俺の耳に、カツンカツンカツンとヒールで走る足音が聞こえて来た。
病室の扉が物凄い勢いで開いたかと思ったら、瞳いっぱいに涙を溜めた俺の妻が飛び込んで来て、
上半身を起こし、ベッドに座っていた俺に抱き付き、
「無事で良かった…。司に何かあったら、私…」
と、泣いた。
俺は、そんな妻を抱き締め返し、
「心配掛けて、悪かった。」
牧野、ごめん…。今の俺は、お前よりも妻を愛してるよ…
心の中でそう牧野に謝りながら、妻を安心させるようにキスをした。
牧野…お前は自分の翼で飛び立つ事が出来たか?今、幸せか?
「パパぁ〜!」
今年5歳になったばかりの娘・梢が俺を呼ぶ声で、懐かしい思い出から現実へと戻された。
俺が記憶を取り戻してから3年。
休日の今日は、家族揃って邸でのんびり過ごしている。
梢の方へ視線を向けると、3歳になる弟の隼の手を引いて、ゆっくりと俺がいるテラスへ向って歩いて来ているところだった。
「転ぶなよ。」
俺がそう声を掛けると、「大丈夫!」と言って、隼の手を引いた。
「何を考えていたの?司が物思いに耽るなんて、珍しいじゃない。」
テラスに置かれたソファーに座る俺の隣に、そう言いながら妻が座る。
「あぁ…牧野の事を思い出してた。」
俺が妻に正直に話すと、妻は苦笑し正直ね。≠ニ呟いた。
「ねぇ、司…牧野 つくしと私、どっちを愛してる?」
俺にそう聞く妻の瞳は、少し不安そうに揺れている。
「両方だな。」
俺がそう答えると、妻は複雑そうな顔をした。
「牧野の事は忘れらんねぇよ、ぜってぇな。一生愛してる。でも、そこで止まってんだ、牧野への気持ちは。
お前への想いは留まる事なんてねぇよ。愛してるって言葉だけじゃ伝えらんねぇ…」
俺の言葉に、にっこり安心した様に、満足そうに微笑む妻。
ったく、いつも言ってんだろ?
俺はお前に心底惚れてんだって…
妻は、俺が牧野の事を話したり、考えたりしていると、時々不安そうな顔をする時がある。
んな事、心配する必要なんてねぇのによ…
「そう言うお前はどうなんだよ?」
俺がそう聞くと、妻は驚いた顔をした後にっこり笑って、
「私?私は司を愛してるわよ。だって、司は私を忘れたりしないもの。」
妻の言葉に一瞬驚いた俺の表情は、すぐに苦笑に変わる。
前科があるだけに、何も言えない。
「つくし…」
「なんて、嘘。私も司と同じ。道明寺を愛してる。でも、司は愛してるだけじゃ足りない位、愛してる。」
牧野を忘れてから4年後、荒れた生活をしていた俺の前に現れたのがつくし≠セった。
N.Yで道明寺財閥 本社 副社長と言う立場にいた俺に、第一秘書として付けられたつくし。
牧野の記憶がない時の俺は、牧野に出逢う前の頃の様に荒れていた。
一時期は女遊びも激しく、毎晩酒を浴びる程飲んでいたが、
それが治まると今度は休む間もない程の仕事を詰め込んで、まさに秒単位のスケジュールをこなしていた。
休むと失くした記憶の事が思い出せず苛々するので、本来俺の仕事ではない仕事まで抱え込んだ。
つくしがそんな俺の秘書になって、まず最初にやった事。
それは、俺のスケジュールを、本来俺がするべき仕事だけに絞り、俺に休みを与える事だった。
その上、家でも仕事をさせないようにと、邸の俺の隣の部屋へと引っ越して来て、徹底的に俺を管理した。
邸にまで転がり込み、俺に興味があるのか、金が目当てなのかと押し倒した俺に、つくしは、
「副社長の様な人間は、世界で一番嫌いです。」
と、静かに言い放った。
生まれてこの方そんな事を言われた事のなかった記憶のない俺はつくしの言葉に呆然とし、
つくしはその間に力が緩んだ俺の腕からさっさと抜け出した。
ベッドルームを出て行く瞬間、
「でも、副社長が今よりも少しでもまともになってくれれば、私も副社長に興味を持つかも知れませんね。」
と言い残して行った。
つくしのその言葉が、俺の征服欲を刺激した。
ぜってぇ、俺に興味を持たせてやる!と…。
今考えると、あれは、つくしが飴と鞭を使い分け、俺を更生させたかっただけだったんだな…
結局、つくしの掌の上で転がされていた俺…
まんまと一杯食わされたぜ…
それからはつくしの組んだスケジュール通りに仕事をこなし、邸に帰ってからは2人で特に何をする訳でもなく、ゆったりと過ごしていた。
不思議とつくしと2人でいる時だけは、記憶が思い出せなくてもイラつく事はなかった。
そんな日々を過ごす内に俺がつくしに惚れ、恋人関係をすっ飛ばして、プロポーズし婚約。
あれよあれよと言う間に、結婚が決まった。
両親と姉貴につくしを紹介した時、姉貴は泣いて喜ぶし、親父は笑い出すし、ババァに至っては、
「牧野さんには負けましたわ。司を宜しく頼みます」
と、苦笑しながら頭を下げていた。
それには流石の俺も、そしてつくしも面食らった。
鉄の女と呼ばれるババァに母親の感情なんてないと思っていたのに、つくしに俺を頼むと頭を下げていたのだから…。
つくしは慌ててババァに頭を上げさせて、これからも宜しくお願いしますね、お義母様と微笑んだ。
それに釣られるように微笑んだババァの表情は、1人の母親の顔だった。
後で聞いた話だと、つくしを俺の秘書につけたのは、ババァだったらしい。
つくしが秘書についてから2年で俺が更生しなければ、
つくしは二度と道明寺家とは関わらないと言う契約をババァと結んでいたと、結婚式の日に聞かされた。
俺って、かなり凄くね?
つくしが秘書についてから3ヶ月もしない間に更生し、出逢って1年未満で婚約に持ち込んだ俺は、やっぱ凄げぇよな。
そんな契約を1年以内に無効にしちまったんだからよ。
そして、つくしと結婚してから3年後に梢が生まれ、そのまた2年後に隼が生まれた。
俺が失っていた記憶を取り戻したのは、隼が生まれてから半年程経った時の事だった。
記憶が戻った俺に、つくしは、
「道明寺≠ェ愛してくれた牧野 つくし≠ヘ、もういない。それでも司は、私≠愛してくれる?」
そう不安そうに聞いた。
俺はつくし≠ェ何を言っているのか分からず、
「お前、何言ってんだ?牧野≠ヘお前だろ?だったら…」
と言った俺の言葉を、つくしは首を左右に振って否定する。
「確かに私は牧野 つくし≠セった。だけど、今の私は道明寺 つくし≠セよ。梢と隼の母親で、司の妻だよ。
道明寺の人間になって5年も経った。少なからず、私だって道明寺に染まってると思う。
牧野 つくし≠セった頃の…この世界の事を何も知らなくて、
道明寺≠ェ好きだって言う気持ちだけで前を向いて行けたあの頃の私程、きっと今の私は強くない。
私は2度、恋をしたのよ。道明寺≠セった頃の司と、今の司≠ノ…。
私は今の司を愛しているけど、司は今の私≠愛してくれる?」
まいった…
完全に完敗だ…
牧野£強くない自分を、俺が愛せなくなるんじゃないかと心配して、不安になって…
潤んだ瞳で、変わってしまった自分を愛してくれるか?と俺に聞いて来る、
そんな可愛い事を聞いて来る俺の女を、俺が手放せる訳ねぇだろ?
「安心しろ、つくし。俺はお前がもう嫌だって言ったって、お前を愛し続けてやる。
俺だって、お前と同じだ。牧野≠カゃなくつくし≠ノ惚れたんだ。んな事、心配しなくて良いんだよ。」
俺がそう言うと、つくしは涙を流しながら抱き付いてきて、
「お帰りなさい、道明寺。」
と呟いた。
「ただいま、牧野。」
そう言って俺が抱き締め返した途端、子供の様に声を上げて泣くつくし。
なぁ、つくし。
俺は確かに牧野≠愛してる。
でも、牧野≠謔閧燻ゥ分の気持ちを素直に言葉にしたり、行動に示したりする様になったつくし≠ノ、俺は性懲りもなく溺れてんだぜ?
まぁ、あの頃と変わらず、鈍感なお前には、俺の気持ちなんて半分も伝わっちゃいねぇんだろうけどよ。
つくしを抱き締めながら、俺は苦笑した。
「なぁ、つくし…」
穏やかな表情で、少し離れた場所で遊んでいる梢と隼を見つめているつくしに、俺は声を掛けた。
俺の声に、子供達に向けていた視線を俺に移す。
俺はそんな視線を感じながら、問いかける。
「牧野は、自分の翼で飛び立てたんだよな?悲しみのない空って所に…」
俺のその問いかけに、つくしは心底驚いた顔をする。
暫く驚いたまま固まっていたつくしが、ゆっくり微笑んで、
「飛べたわよ、3年前に。悲しみのない空へ…。道明寺≠ェ思い出してくれたから…」
俺が忘れていた記憶は、1人で持っているには悲しすぎたと、いつか話してくれたつくし。
俺が思い出した事で、牧野は悲しみのない空へ飛び立てたのだと、つくしは笑った。
「じゃぁ、牧野は幸せなんだな?」
真剣にそう問いかけた俺に、つくしは満面の笑みを浮かべて、
「当たり前じゃない!凄く、幸せよ。」
と言って、俺の唇に自分の唇を重ねた。
いつの間にか俺達の近くまで来ていた梢が、
「見ちゃダメ!」
と言って、隼の目を小さな両手で隠している。
そんな様子を横目で見ながら、俺は瞳を閉じてつくしのキスに応えた。
18歳の時に牧野≠ノ心底惚れた俺は、22歳の時につくし≠ノ出逢い、今でも変わらず愛し続けている。
俺が生きてきた30数年の人生の中で、心から手に入れたいと思った女が同じ女で良かったと心から思う。
結局俺には、この女以外の女は見えてねぇんだ。
初めて惚れた牧野≠ヘ、素直じゃなくて意地っ張りで、元気いっぱいな少女だった。
2度目に惚れたつくし≠ヘ、若いながらも仕事の出来る優秀な秘書で、艶やかな大人の女だった。
だけど、意志の強い大きな瞳やクルクル表情を変えるところは、今も昔も変わっていない。
俺の前でしか、本来の姿や弱さを曝け出ねぇって言うんなら、いくら弱くなっても構わない。
そんなお前の姿は、世界中探したって俺しか見らんねぇって事だろ?
それって、最高じゃねぇか。
確かに強い牧野も好きだけど、俺にしか見せない顔を持ってるつくしに、俺は未だに溺れ続けてるんだぜ?
だから、つくし…
これからも俺の隣で、色んなお前を見続けさせてくれよな。
どんなお前だって、受け止めてやるからよ。
お前とならどこまでだって行ける気がするんだ。
だから今度は一緒に飛び立とうぜ、悲しみのない空っつー所まで。